ヴェルレーヌ「シテール島」Verlaine « Cythère »と音楽 クープラン ドビュシー サティ プーランク

ポール・ヴェルレーヌの「シテール島(Cythère)」は、1869年に出版された『艶なる宴(Fêtes galantes)』の中の一編で、ロココ絵画の雰囲気を19世紀後半に再現している。

19世紀前半、ルイ15世やルイ16世の時代の装飾様式をロココ(rococo)と呼ぶようになったが、ロココは時代遅れ様式というニュアンスを与えられていた。
そうした中で、一部の人々の間で、18世紀の文化全体を再評価する動きが生まれ、ロココ絵画に言及する美術批評や文学作品も現れるようになる。

アントワーヌ・ヴァトーの「シテール島の巡礼(Le Pèlerinage à l’île de Cythère)」は、18世紀の前半に、「艶なる宴(fête galante)」という絵画ジャンルが生まれるきっかけとなった作品だが、19世紀前半のロマン主義の時代、過去への追憶と同時に、新たな美のモデルとして、文学者や評論家によって取り上げられるようになった。

美術評論家シャルル・ブランは、「艶なる宴の画家たち(Les peintres des Fêtes Galantes)」(1854)の中で、以下のように述べている。

Éternelle variante du verbe aimer, l’œuvre de Watteau n’ouvre jamais que des perspectives heureuses. (…) La vie humaine y apparaît comme le prolongement sans fin d’un bal masqué en plein air, sous les cieux ou sous les berceaux de verdure. (…) Si l’on s’embarque, c’est le Départ pour Cythère.

「愛する」という動詞の果てしない変形であるヴァトーの作品は、幸福な光景しか見せることがない。(中略) そこでは、人間の生活は、野外で、空や緑の木立の下で行われる仮面舞踏会の、終わりのない延長のように見える。(中略) もし船に乗って旅立つとしたら、それは「シテール島への出発」だ。

こうした記述を読むと、愛の女神ヴィーナスが誕生後に最初に訪れたといわれるシテール島が、恋愛の聖地と見なされていたことがわかる。

ヴェルレーヌも、ロココ美術復興の動きに合わせ、彼なりの『艶なる宴』を作り出した。
そこでは仮面舞踏会での恋の駆け引きが音楽性豊かな詩句で描き出され、「シテール島」においても、無邪気で楽しげな恋の場面が目の前に浮かび上がってくる。

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ヴェルレーヌ  「ああ!主よ、私はどうしたのでしょう?」 Verlaine « Ah! Seigneur, qu’ai-je? » 『叡智』 Sagesse 選ばれてあることの恍惚と不安と

『叡智(Sagesse)』2部の最後に置かれた「その4 神が私に言われた(Mon Dieu m’a dit)」は9つの詩篇に分かれ、罪人(pécheur)である「私(je)」と神(Dieu)の間で交わされる対話によって構成されている。

「私」は、五感の官能に恍惚とする人間であり、神を愛することに値する人間ではない(indigne)と自覚し、神を愛することに恐れを感じ、ためらう。

他方、神は、「私(神)を愛せ(Il faut m’aimer)」と諭し続ける。そして、「私(Je)」が教会でミサを受け、心の平穏を味わうことが可能だと告げる。

その神の言葉を受けて、「私」は「ああ! 主よ、私はどうしたのでしょう? 」に至り、一見矛盾する心情を吐露することになる。

VIII

Ah ! Seigneur, qu’ai-je ? Hélas ! me voici tout en larmes
D’une joie extraordinaire: votre voix
Me fait comme du bien et du mal à la fois,
Et le mal et le bien, tout a les mêmes charmes.



ああ! 主よ、私はどうしたのでしょう? ああ! 私は涙にくれています、
尋常ではない喜びの涙に。あなたの御声が、
私に、善きことでもあり悪しきことでもあるようなことを、なしてくださいます。
悪と善と、全ては同じ魅力を持っています。

                   朗読は6分35秒から
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ヴェルレーヌ 「空は、屋根の彼方で」 Paul Verlaine « Le ciel est, par-dessus le toit » 『叡智』 Sagesse 祈りのリフレイン

1873年7月10日、ヴェルレーヌはランボーとの波乱に満ちた生活の果てに、ブリュッセルにおいて、立ち去ろうとする恋人をピストルで打つという事件を起こす。
その結果、裁判で判決が出るまで、プティ・カルム監獄に収容された。

後に『叡智(Sagesse)』(1881)に収められることになる「空は、屋根の彼方で(Le ciel est, par-dessus le toit)」は、その監獄の中で書かれた詩であり、漠然とはしているが、何かしら祈りの気持ちが感じられる。

詩の全体は、8音節と4音節の組み合わせからなる4行詩の詩節が4つの短いものであり、しかも反復が多くあり、音の数も映像の展開も非常に限られている。
そのことが、「空は屋根の彼方で」を祈りの言葉のようにし、肉体は監獄に閉じ込められる一方、魂は彼方に解き放たれていく感覚を作り出している。

Le ciel est, par-dessus le toit,
Si bleu, si calme !
Un arbre, par-dessus le toit,
Berce sa palme.

空は、屋根の彼方で、
なんと青く、なんと穏やかなことか!
一本の木が、屋根の彼方で、
葉を揺する。

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ヴェルレーヌ 「忘れられたアリエット その8」 Verlaine « Ariettes oubliées VIII » 倦怠のおぼろげな風景

Daubigny La Neige

風景を描くことが、人の心の表現になる。日本の和歌ではそれはごく当たり前のこと。
しかし、人間と自然がそれほど親密な関係にないヨーロッパでは、擬人法という形で人間の心を無生物に投影するといったやり方をしないと、景物が心模様を表現することはない。

ところが、そうした中にも例外的な存在はいる。ポール・ヴェルレーヌだ。
例えば、「忘れられたアリエット」の8番目の詩では、冬の風景が詩人のアンニュイな心持ちを伝えている。
詩句の音節数は5。5/7のリズムに馴染んでいる日本語母語者には、さらに親しみやすく感じられる。

Ariettes oubliées VIII

Dans l’interminable
Ennui / de la plaine
La neige incertaine
Luit comme du sable.

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口に心地よいフランス詩 ヴェルレーヌ  « À Clymène »

日本語でも、フランス語でも、詩では音楽性が重視され、耳に気持ちのいい詩は、日本語でもフランス語でも数多くある。
では、口に気持ちのいい詩はどうだろう? 声に出して読むと、口が気持ちいいと感じる詩。

言葉を発声する時、日本語では口をあまり緊張させないが、フランス語では口を緊張させ、しっかりと運動させる。
そのために、詩の言葉を口から出した時、とても気持ちよく感じられる詩がある。
その代表が、ポール・ヴェルレーヌの« À Clymène ». 声を出して詩句を読むと、本当に口が気持ちよくなる。
https://bohemegalante.com/2019/03/05/verlaine-a-clymene/

実際に詩を声に出して読む前に、口の緊張について確認しておこう。

日本語を母語とする者にとって、日本語とフランス語の口の緊張の違いが一番よくわかるのは、「イ」の音。
「ア・イ」といいながら口を意識すると、口の形がそれほど変わらず、ほとんど力が入っていないことがわかる。
それに対して、フランス語の[ i ]では、口に力を入れ、思い切り横に引っ張る。とても力が入り、緊張している。
テレビでアナウンサーが話すのを見る時、口が真一文字になっていることに気づくことがあるほど。

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ヴェルレーヌ 忘れられたアリエッタ その9 Verlaine « Ariettes oubliées IX » 風景と人の心

19世紀の後半、フランスでは浮世絵が大流行し、日本趣味(ジャポニスム)が広がった。ヴェルレーヌがそうした流行とどのようにかかわり、日本の精神から何かを学んだのかどうかはわからない。
しかし、ヴェルレーヌの詩は、日本語を母語とし、日本的感性を持っている人間であれば、すぐに理解できる側面を持っている。逆に言うと、フランス的な感性を持った人間には、理屈で説明しないといけないのかもしれない。

巷に雨の降るごとく わが心にも涙降る
Il pleure dans mon cœur / Comme il pleut sur la ville
(「忘れられたアリエッタ その3」)
https://bohemegalante.com/2019/07/26/verlaine-ariettes-oubliees-iii/

この詩句は、和歌に親しんでいる私たちには、そのまま心に入ってくる。

奥山に 紅葉ふみわけ 鳴く鹿の 声きく時ぞ 秋は悲しき
                          (詠人知らず)

この句を読むと、私たちは、紅葉や鹿が秋をつげ、どこかもの悲しい感じ、つまり、もののあわれを自然に感じる。

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メンデルスゾーン、ショパンの「舟歌」とヴェルレーヌのこの上なく美しい詩

ヴェルレーヌが1874年に出版した詩集『言葉なき恋愛(Romances sans paroles)』は、メンデルスゾーンのピアノ曲集『言葉なき恋愛(Lieder ohne Worte)』に由来すると言われている。

メンデルスゾーンのピアノ曲集には、「ベニスのゴンドラ乗りの歌」と題された曲が3つ入っている。
同じように、ベルレーヌの詩集にも舟歌がある。
「クリメーヌに」。
「神秘的な舟歌(Mystiques barcarolles)」という詩句で始められる。

作曲家と詩人を繋ぐものとして、もう一つの舟歌があるかもしれない。
それが、ショパン晩年の曲「舟歌」。フランス語の曲名は、Barcarolle。
ヴェルレーヌが、« Mystiques barcarolles »綴ったとき、メンデルスゾーンだけではなく、ショパンの曲も心に思い描き、二人の舟歌が詩人の内部で鳴り響いていただろう。

そうして出来上がった詩「クリメーヌに」は、ヴェルレーヌの中でも、最も美しい。

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ヴェルレーヌ家の家族写真 Des photos intimes rarissimes de Paul Verlaine

ヴェルレーヌ一家の写真アルバムが発見され、2019年11月20日にパリで競売にかかります。
https://www.lefigaro.fr/livres/des-photos-intimes-rarissimes-de-paul-verlaine-bientot-vendues-a-l-encan-20191115

そのアルバムの中に、これまで見つかっていなかったヴェルレーヌの写真が2枚あるそうです。

Les deux photos du poète, «d’une extrême rareté», ont été prises « au cœur des années 1860 tandis que Verlaine s’apprêtait à publier son premier et mythique recueil : Poèmes Saturniens », précise encore le communiqué. Sur ces clichés au ton jauni, on peut voir le jeune poète, imberbe, assis accoudé à une table ou debout, la tête droite et la main glissée dans une poche.

ヴェルレーヌ 「秋の歌」 Verlaine « Chanson d’automne » 物憂い悲しみ

日本におけるヴェルレーヌのイメージは、上田敏による「落葉」の翻訳によって決定付けられているといってもいいだろう。その翻訳は、上田敏作の詩と言っていいほどの出来栄えを示している。

秋の日の/ヰ゛オロンの/ためいきの/身にしみて/ひたぶるに/うら悲し。
鐘のおとに/胸ふたぎ/色かへて/涙ぐむ/過ぎし日の/おもひでや。
げにわれは/うらぶれて/ここかしこ/さだめなく/とび散らふ/落葉かな。

この翻訳の素晴らしさが、日本における「秋の歌」の人気の秘密であることは間違いない。しかしそれと同時に、ヴェルレーヌの詩が、『古今和歌集』の詠人知らずの和歌のように、「もののあわれ」を感じさせることも、人気の理由の一つではないだろうか。

秋風に  あへず散りぬる  もみぢ葉の  ゆくへさだめぬ  我ぞかなしき 

フランス語を少しでもかじったことがあると、これほど素晴らしい詩がフランス語ではどうなっているのだろうと興味を持つことだろう。
もちろん、ヴェルレーヌの詩も素晴らしい。

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ヴェルレーヌ 「カエルのように重く、鳥のように軽い」 Verlaine « Lourd comme un crapaud léger comme un oiseau » 日本の芸術を見るヴェルレーヌの目

ポール・クローデルは、優れた日本文学論「日本文学散歩(Une promenade à travers la littérature japonaise)」の冒頭で、2つのフランス詩を、極東精神の精髄を感知するための序曲として引用している。

一つがステファン・マラルメの「苦い休息にうんざり(Las de l’amer repos)」。
https://bohemegalante.com/2019/08/27/mallarme-las-de-lamer-repos/
もう一つがポール・ヴェルレーヌの「カエルのように重く、鳥のように軽い(Lourd comme un crapaud, léger comme un oiseau)」。

この二つの詩を比較して、クローデルは、マラルメの詩は古典的で完璧な手さばきを示している一方、ヴェルレーヌは走り書きで、より大きな自由が感じられると言う。

「カエルのように重く、鳥のように軽い」では、奇数の音節が詩句から重さを取り除いている。奇数の音節と軽さは、「詩法」の中でヴェルレーヌ自身によって主張されていた。
https://bohemegalante.com/2019/06/16/verlaine-art-poetique/
その上で、最後の詩句が17音節と特別に長く、それが詩人のサインの役目を果たしていると、クローデルは考える。

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