宮沢賢治 銀河鉄道の夜 ほんとうの幸

『銀河鉄道の夜』が読者に伝えるメッセージの中心は、「本当の幸せとは何か?」という問題に絞られる。

その問いに対して、その作品以前にも賢治がしばしば導き出したのは、世界を救うため、あるいは他者の幸福のためであれば、自分を犠牲にし、死に至ることもいとわない、というものだった。

例えば、「グスコーブドリの伝記」は自己犠牲の物語であり、主人公グスコーブドリは、イーハトーブの深刻な冷害の被害をくい止めるようとし、火山を人工的に爆発させ、高温のガスを放出させて大地を温めるため、最後まで火山に残り、自分の命と引き換えに人々の生活を救う。

しかし、自分を犠牲にして人あるいは世界を幸福にするという考え方は、現代社会を生きる人間には違和感がある。人のために死んだら、何にもならない。その上、近親者や友人達は深い悲しみに襲われるだろう。そんな幸福は、自己満足ではないのか?

ザネリを助けるために溺れてしまったカムパネルラは、銀河鉄道の列車の中で、「ぼくはおっかさんが、ほんとうに幸わいになるなら、どんなことでもする。けれども、いったいどんなことが、おっかさんのいちばんの幸なんだろう。」とジョバンニに問いかける。
そして、ジョバンニが、「きみのおっかさんは、なんにもひどいことないじゃないの。」と応えると、カムパネルラの方では、「ぼくわからない。けれども、誰だって、ほんとうにいいことをしたら、いちばん幸なんだねえ。だから、おっかさんは、ぼくをゆるして下さると思う。」と言葉を続ける。

『銀河鉄道の夜』中で、この会話に対する明確な答えが提示されてはいない。
そこで、「自己犠牲」や「いいこと」には明確な答はなく、「いいこととは何かを考える続けること」が賢治の考える人間のあり方である、といった解説をすることもある。
こうした読解であれば、現代の読者にも受け入れられやすいに違いない。

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宮沢賢治 銀河鉄道の夜 すきとおった世界

宮沢賢治(1896-1933)は生前2冊の本しか出版していない。一冊は詩集『春と修羅』、もう一冊は童話集『注文の多い料理店』。どちらも大正13年(1924年)のことだった。
その同じ年に、結局未完のままで終わった「銀河鉄道の夜」 も書き始められた。

その時期は賢治の創作活動が最も活発な時であると同時に、彼の世界観が「心象スケッチ」や物語の形で美しく表現されていた。

その世界観は、『注文の多い料理店』の「序」では、子どもにも理解できるやさしい言葉で告げられる。

わたしたちは、氷砂糖をほしいくらいもたないでも、きれいにすきとおった風をたべ、桃いろのうつくしい朝の日光をのむことができます。
(中略)
わたくしは、これらのちいさなものがたりの幾いくきれかが、おしまい、あなたのすきとおったほんとうのたべものになることを、どんなにねがうかわかりません。

ここでは、「すきとおった」という言葉が最初と最後に出てくることに注目しておきたい。その言葉は、賢治の世界がその本来の姿を現すことを示すマジック・ワードなのだ。

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2022年1月15日 モリエール生誕400年

モリエールは、1622年1月15日に生まれ。2022年1月15日は、彼の生誕400年にあたる。
そのことは文化省(Ministère de la Culture)のホームページにも記され、今年一年、モリエール関係の様々な催しが予定されている。
https://www.culture.gouv.fr/Actualites/400e-anniversaire-Moliere-notre-contemporain

フランスでは今でもモリエールの芝居が数多く上演され、400年前に書かれた言葉のまま人々に理解され、親しまれている。
1622年と言えば、日本では江戸時代の初期。当時の言葉は今では理解が難しいことを考えると、現代のフランス語が17世紀にほぼ出来上がっていたことが理解できる。

また、一人の作家が大きなイベントとして扱われることは、文化(culture)が現在でもフランス社会の中で意義を保っていることを示しているといってもいいだろう。

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ボードレール 人工楽園 Baudelaire Paradis artificiels 主観と客観の一体化

ボードレールの『人工楽園』は、人を酔わせる物質、ワイン、ハシッシュ、アヘンによる幻覚作用が心身に及ぼす効果について詳細に描いているのだが、その中心にあるには、「私」という主体が、対象となる客体と一体化する経験だといえる。

私たちでも、ある機会に何かに没頭して、我を忘れる時がある。その時には、「私」が何かをしているという意識もないし、対象となるものに対する意識もない。それは忘我の状態であり、時間意識も空間意識もなく、その状態が終わった後で、夢中になっていたとか、あっという間だったとか思い返し、最高に幸せな体験として感じることになる。

酒や麻薬は、忘我とはいえないが、意識が飛んで自分を失った状態を、物質によって人工的に作り出す可能性がある。ボードレールにとっての最高の手段は「詩(ポエジー)」であるが、薬物の作用を分析することは、最高の「酔い」である「恍惚(エクスターズ)」を理解する助けだったと考えていいだろう。

「私」と「客体」が一つになると感じられる体験に関して、『人工楽園』の中では、二つの箇所で触れられている。

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宮沢賢治 「めくらぶどうと虹」 根源的生命と美の世界

宮沢賢治の「めくらぶどうと虹」は原稿用紙7枚ほどの短い童話だが、東洋的あるいは日本的な世界観、生命感が誰にでも理解できる穏やかな言葉で語られている。

童話は、東北の言葉で「めくらぶどう」と言われる野ブドウと虹の間のやり取りの中で展開する。

地上のめくらぶどうは自分を価値のない存在と考え、天空に架かる美しい虹に憧れを抱き、「今日こそ、ただの一言でも、虹と言葉を交わしたい。」と望み、虹に「どうか私の敬いを受け取って下さい。」と訴える。

そんなぶどうに対して、虹の方では、「敬いを受けることはあなたも同じです。」とか、「あなたこそそんなにお立派ではありませんか。」と応え、ぶどうと自分との間に違いはないと応える。
その虹の言葉は、決してぶどうを慰めるためのおべっかではなく、一つの世界観、宗教観、生命観に基づいている。

ここではまず、「めくらぶどうと虹」の朗読(約9分)を聞き、童話全体を知ることから始めよう。

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ボードレール 「虚無の味」 Baudelaire Le Goût du néant 無の中の動

19世紀の後半、フランス文学の中で、「虚無(néant)」という言葉が独特の魅力を帯びるようになる。そのことは、古代ギリシアから続く価値観になんらかの変化が起こりつつあったことを示している。

ヨーロッパ文化の中で、古代ギリシア以来、肯定的な価値を持つのは、「存在(être)」であり、「全(tout)」や「生(vie)」などの概念だった。他方、その対極にある「無(rien)」や「空(vide)」といった概念は、否定的に捉えられてきた。

ボードレールは、1859年に発表した詩の題名を、« Le Goût du néant »とした。
« goût »という単語は本来「味わう行為」や「味」を意味し、そこから、味わう物に対する「好み」を意味するようにもなった。
さらには、« bon goût »(よき趣味)という使用法からも伺えるように、美学的なセンスを含意することもある。
従って、詩の題名は、「虚無の味」というだけではなく、「虚無に対する好み」、あるいは「虚無を美的に捉えるセンス」という意味に理解することもできる。
そのように理解した場合には、ボードレールが「虚無」に美的な価値を与えたとも考えられる。

私たち日本の読者にとって興味深いのは、東洋の文化において「無の思想」は馴染み深いものであり、「虚無の味」をフランス人よりも抵抗なく味わうことができる可能性があることである。
つまり、ヨーロッパ的な感性では否定的としか見なされない状態を「ゼロ」と見なし、そのゼロ地点を「創造の源」として捉える視点を提示できるのではないか。
そんな可能性を意識しながら、« Le Goût du néant »を読んでみよう。

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ジェラール・ド・ネルヴァル 「 オーレリア」 人間の魂の詩的表現 Gérard de Nerval Aurélia 1−10

第10章は、1855年1月26日のネルヴァルの死以前に発表された「オーレリア」(1855年1月1日)の最後の部分。
以前の夢と同じように、まず地球内部のマグマのように全てが融合した状態が知覚され、そこから徐々に明確な場面が形成されていく。

第10章

こうした考えが少しづつ私を絶望へと追い込んでいったのだが、その絶望をどのように描けばいいのだろうか? 悪い精霊が、魂の世界で、私の場所を奪ってしまったのだ。——— オーレリアにとって、その精霊が私そのものだった。そして、私の肉体に生命力を与えている悲壮な精霊の方は、衰弱し、軽蔑され、彼女から誤解され、絶望か虚無に永遠に運命付けられていた。私は持ちうる限りの意志の力を使い、これまで何枚かのヴェールを持ち挙げてきた神秘の中に、さらに入り込もうとした。夢は時に私の努力を揶揄することがあり、しかめ面で移ろいやすい映像だけしかもたらさなかった。私はここで、精神が一点に凝集したために起こったことに関して、かなり奇妙な考えしか提示することができない。長さが無限のピンと張られた一本の糸のようなものの上を滑っていくように感じた。地球は、すでに見てきたように、融解した金属の多色の脈が縦横に走っていたが、中心の火が徐々に開花することで少しづつ明るくなり、火の白さが内部の襞を染める桃色と溶け合っていった。時に、巨大な水たまりに出会いびっくりすることがあった。その水たまりは、雲のように空中にぶら下がりっていたが、しかし、塊を取り出すことができるほどの密度があった。明らかに地上の水とは異なる液体であり、精霊の世界における海や大河を形作る液体が蒸発したものだった。

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ジェラール・ド・ネルヴァル 「 オーレリア」 人間の魂の詩的表現 Gérard de Nerval Aurélia 1−9

第9章に入ると、これまで語られてきた挿話から10年後のエピソードに移行する。そして、「10年前の私」に起こったことを参照することで、過去と現在が重ね合わされながら、新しい出来事が展開していくことになる。

第9章

以上のことが、私の目の前に代わる代わる現れた映像だった。少しづつ穏やかな気持ちが心の中に戻って来た。そして、私にとっては楽園であったこの施設を後にした。ずっと後になり、宿命的な状況が病気の再発を準備し、かつての奇妙な夢想の途切れた繋がりを結び直したのだった。———

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ジェラール・ド・ネルヴァル 「 オーレリア」 人間の魂の詩的表現 Gérard de Nerval Aurélia 1−8

第8章では、前の章に続き、ネルヴァルによる世界創造の情景が描かれる。
夢の中で運ばれた暗い惑星では、あたかも恐竜時代のような光景が展開し、上空には明るい星が姿を現す。

第8章

怪物たちは姿を変化させ、初めに身につけていた皮を脱ぎ捨て、巨大な足で力強く立ち上がった。その巨体のすさましい塊が枝や葉を打ち倒し、混乱した自然の中で、怪物たちはお互いの間で戦いを繰り広げた。私もその戦いに参加していた。私も怪物の体をしていたのだ。突然、独特なハーモニーが孤独な空間の中に鳴り響いた。すると、原初の生物たちの混沌とした叫び声やうなり声、鋭い鳴き声が、神聖な調べに調子を合わせていった。その変調は無限に続いた。一つの惑星が少しづつ明るくなり、緑の植物や深い森の上には神々の姿が描かれた。その時から、私が目にした怪物たちは全てがおとなしくなり、奇妙な姿を脱ぎ捨て、人間の男女になった。他の怪物たちは、姿を変える中で、野獣や魚や鳥の姿を纏っていった。

注:
荒れ果てた空間の中で怪物たちがうごめく混沌とした場面に、一つのハーモニーが響く。そして、そのハーモニーに合わせ、全てが調和を始める。次にまた混乱し、調和を取り戻す。
ネルヴァルにとって、創世神話はそうした混沌と調和の連続と見なされるが、その中で重要なことは、全てが最終的には調和(ハーモニー)に基づいていること。別の視点から見ると、彼の試みは、混沌とした世界あるいは精神に調和を取り戻すことだと考えられる。

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