ヴィクトル・ユゴー 「パン」 Victor Hugo « Pan » フランス・ロマン主義の神 2/2

Isis allaitant Harpocrate

パン(Pan)の語源となるギリシア語は、「全て」を意味する。
そのパンが、キリスト教の神(Dieu)の行為を最初に明かす。
そこには、キリスト教と古代ギリシアの神々を崇める異教とを融合する諸教混合主義(syncrétisme)を見てとることができる。

C’est Dieu qui remplit tout. Le monde, c’est son temple ;
Œuvre vivante, où tout l’écoute et le contemple.
Tout lui parle et le chante. Il est seul, il est un.
Dans sa création tout est joie et sourire.
L’étoile qui regarde et la fleur qui respire,
Tout est flamme ou parfum !

神が全てを満たした。世界は神の神殿。
生命を持つ作品。そこでは、全てが神の声を聞き、姿を見つめる。
全てが神に話しかけ、神を歌う。神は一人、神は唯一の存在。
神の創造において、全ては喜びであり、微笑み。
見つめる星、息づく花、
全ては炎、あるいは香り!

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ヴィクトル・ユゴー 「パン」 Victor Hugo « Pan » フランス・ロマン主義の神 1/2

1831年に出版された『秋の葉(Les Feuilles d’automne)』に収められた「パン(Pan)」は、フランス・ロマン主義を主導するヴィクトル・ユゴーが、詩とは何か、詩人とはどのような存在か、高らかに歌い上げた詩。

1820年にラ・マルティーヌが「湖(Le Lac)」によって、ロマン主義の詩の一つの典型を示した。
https://bohemegalante.com/2019/03/18/lamartine-le-lac/
その約10年後、ユゴーが、古代ギリシアの神であるパンの口を通して、ロマン主義の詩を定義した。

パンは、元々は自然を表す神の一人であり、羊飼いと羊の群れの保護者。下半身はヤギ、上半身は人間、頭の上には角を突けた姿で描かれた。

パン(Pan)という言葉はギリシア後で「全て」を意味する。
そのためだと考えられるが、オルペウス教では、原初の卵から生まれた両性存在の神と同一視された。
さらに、ネオ・プラトニスムのメッカであるアレクサンドリアでは、宇宙全ての神と考えられるようになった。

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中原中也 「盲目の秋」 — 腕を振る — ランボーから中也へ 

「盲目の秋」の第一連で、中也は美しいリフレインを繰り返す。

風が立ち、浪が騒ぎ、
  無限の前に腕を振る。

直接の影響関係を証明することはできないけれど、腕を振る身振りは、ランボーの「大洪水の後」でも見られる。

村の広場で、子供が腕をグルグルと回した。至る所にある風見鶏や鐘塔の雄鶏たちから理解され、キラキラと輝く突風の嵐に吹かれて。
[…] sur la place du hameau, l’enfant tourna ses bras, compris des girouettes et des coqs des clochers de partout, sous l’éclatante giboulée.
https://bohemegalante.com/2020/07/16/rimbaud-apres-le-deluge-2/

二人の詩句を続けて読むと、腕を振る身振りが通奏低音のように二人の詩人の中で響き合っていることが感じられる。

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ランボー 大洪水の後 Arthur Rimbaud « Après le Déluge » 2/2 新たな生の誕生に立ち会う

ビーバーと黒いコーヒーの後は、何が立ち上がってくるのだろうか?

  Dans la grande maison de vitres encore ruisselante les enfants en deuil regardèrent les merveilleuses images.
Une porte claqua, et sur la place du hameau, l’enfant tourna ses bras, compris des girouettes et des coqs des clochers de partout, sous l’éclatante giboulée.
Madame*** établit un piano dans les Alpes. La messe et les premières communions se célébrèrent aux cent mille autels de la cathédrale.

 窓がたくさん付き、今でもまだ水が滴り落ちている大きな家の中で、喪に服した子ども達が素晴らしい絵を見た。
 一つの扉が音を立てた。村の広場で、子供が腕をグルグルと回した。至る所にある風見鶏や鐘塔の雄鶏たちから理解され、キラキラと輝く突風の嵐に吹かれて。
 ***夫人がアルプスの山中にピアノを一台据え付けた。ミサと最初の聖体拝領が大聖堂の何十万もの祭壇で祝われた。

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ランボー 大洪水の後 Arthur Rimbaud « Après le Déluge » 1/2 新たな生の誕生に立ち会う

「大洪水の後(Après le Déluge)」は、『イリュミナシオン(Illuminations)』の冒頭に置かれた散文詩。

いかにもランボーらしく、日常的に使う単語を使った簡潔な構文の文が、機関銃から発せされるように、次々に連ねられる。
その一方で、単語と単語、とりわけ文と文の間の意味の連関が不明で、論理性がまったく見えない。

論理や意味は読者一人一人が作り出すしかない。
そんな風にして、ランボーは読者を罠に誘い込み、ゲームを楽しんでいるのかもしれない。
彼は、生き生きとした言葉の錬金術(alchimie des verbes)を行い、突風のような勢いで、読者を彼のポエジーへと巻き込んでいく。

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ランボー 言葉の錬金術 Rimbaud Alchimie du verbe 『地獄の季節』の詩法 5/5

「永遠が見つかった!」と韻文詩の中で叫んだ後の散文詩は、日常的な言語感覚では意味不明なものにますます傾いていく。
構文は単純であり、初級文法さえ知っていれば理解可能な文が続く。
理解を妨げるのは、単語と単語の繋がり。

例えば、冒頭の「ぼくは空想的なオペラになった。」という一文。
人間がオペラになる? 
空想的な(fabuleux)オペラとは何か? 
ランボーはその答えを導くヒントをどこにも残していない。
読者は、自分の持つ知識と感性に従って、何らかの思いを抱き、次の文に進むしかない。
しかし、前の文と次の文の意味的な連関もよくわからない。

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ランボー 言葉の錬金術 Rimbaud Alchimie du verbe 『地獄の季節』の詩法 4/5

韻文詩「空腹(Faim)」と「狼が叫んでいた(Le loup criait)」は、空腹を歌う詩。
二つの詩とも、内容はただ「腹へった!」というだけ。
そんな空虚な内容を、軽快で、音楽性に満ち、スピード感に溢れた詩句で綴っていく。

ランボーは、意味よりも表現にアクセントを置き、これまでの詩法に違反したとしても、スタイリッシュな詩句を口から紡ぎ出す。

その詩句の魅力に引き寄せられた読者は、何らかの意味があると信じ、読者自身で意味を考え出す。
それがランボーの詩句の意味となり、意味が重層化され、ランボーの詩の中に堆積してきた。

ランボーは、『地獄の季節』の散文でも、同じ作業を行う。
二つの詩に続く散文は、とりわけ魅力的に響く。

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ランボー 言葉の錬金術 Rimbaud Alchimie du verbe 『地獄の季節』の詩法 3/5

「最も高い塔の歌(Chanson de la plus haute tour)」で世界に別れを告げたというランボー。

その韻文詩は、非常にスタイリッシュなリフレインで始まる。

Qu’il vienne, qu’il vienne
Le temps dont on s’eprenne !

時よ来い、時よ来い
陶酔の時よ、来い!

その後に続く詩句は、何か現実を反映しているというよりも、苦しみ、恐れ、渇き、忘却といった言葉が疾走し、花開く草原に汚いハエたちの荒々しい羽音がする。
https://bohemegalante.com/2019/11/22/rimbaud-chanson-de-la-plus-haute-tour/
連続する詩句は、具体的なものを描写する言葉ではない。
言葉たちが幻覚(hallucination)を生み出しているようでさえある。

この歌で世界に別れを告げた後、詩人は再び「ぼく」の経験を語り始める。

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ランボー 言葉の錬金術 Rimbaud Alchimie du verbe 『地獄の季節』の詩法 2/5

冒頭の散文の後、ランボーは韻文詩「鳥、家畜、村の女たちから遠く離れて(Loin des oiseaux, des troupeaux, des villageoises)」と「午前4時、夏(À quatre heures du matin, l’été)」を挿入し、その後再び散文に戻る。

挿入された最初の詩の主語は「ぼく」。
ぼくがオワーズ川で水を飲むイメージが描き出される。そして最後、「泣きながら黄金を見たが、水をもはや飲むことは。(Pleurant, je voyais de l’or — et ne pus boire. —)」という詩句で締めくくられる。

二番目の詩では、「ぼく」という言葉は見当たらない。しかし、朝の四時に目を覚し、大工達が働く姿が見えてくる状況が描かれるとしたら、見ているのは「ぼく」だろう。
その大工たちが古代バビロニア王の下で働く労働者たちと重ね合わされ、彼等にブランデー(生命の水)を与えるヴィーナスに言及される。

二つの詩は、渇きと水をテーマにしている点では共通している。その一方で、オワーズ川というランボーの故郷を流れる現実の川と古代バビロニアや女神が登場する神話的なイメージは、対照を成している。

その二つの韻文詩の後、散文が続く。

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ランボー 言葉の錬金術 Rimbaud Alchimie du verbe 『地獄の季節』の詩法 1/5

アルチュール・ランボーは、『地獄の季節(Une Saison en enfer)』の中心に、「錯乱2:言葉の錬金術(Délires II. Alchimie du verbe)」と題する章を置き、7つの韻文詩とそれらを取り囲む散文詩を配した。

そこで繰り広げられた「言葉の錬金術」の内容は、1871年5月に書かれた「見者の手紙(Lettres du Voyant)」や、同じ年の8月に投函されたテオドール・バンヴィル宛ての手紙に書き付けられた韻文詩「花について人が詩人に語ること(Ce qu’on dit au poète à propos des fleurs)」の中で展開された詩法を、さらに発展させたものと考えられる。

ここでランボーの散文詩を読むにあたり、指摘しておきたいことがある。
多くの場合ランボーの散文の構造は非常に単純であり、それだからこそ、青春の息吹ともいえる生き生きとしたスピード感に溢れている。
その一方で、単語と単語の意味の連関が希薄なことが多く、論理を辿りにくいだけではなく、意味不明なことも多い。
そのために、多様な解釈が可能になる。読者の頭の中にクエション・マークが??????と連続して点滅する。
その不可思議さが、ランボーの詩の魅力の一つでもある。

では、これから『地獄の季節』の心臓部とも言える「錯乱2:言葉の錬金術」を読んでみよう。

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