英語の進行形って何?

英語だけ勉強していると気付かないのだが、他の言語を勉強していると、進行形が英語特有の動詞の表現方法であるを知り、驚いてしまう。少なくとも、フランス語などヨーロッパ系の言語には進行形という形は存在しない。

だからこそ、英語の進行形とは何なのか知りたくなってくるのだが、少し調べただけで、解説があまりにも複雑で、何が何だかわからなくなりそうになる。現在進行形は何となくわかるとしても、現在完了進行形って何だろう? それが未来完了進行形とか過去完了進行形とかになり、その細かな用法やニュアンスが説明されると、ますます混乱してしまう。

そこで、原点に戻って考えてみることにした。
いわゆる進行形と呼ばれるのは、be+動詞のing形

動詞のing形には、現在分詞と動名詞という二つの用法がある。

動名詞というのは、動詞を名詞的に使う用法。
例えば、« He is good at playing tennis. »
前置詞 at の後ろは名詞が来るため、動詞playにingを付けて名詞として扱う。

進行形の場合には、be+現在分詞
現在分詞は過去分詞と対比され、現在分詞は動詞を能動的な意味、過去分詞は受動的な意味にする。
opening (開く): opened(開かれた)
そして、be+現在分詞(ing)は進行形になり、be+過去分詞(ed)は受動態になる。

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英語の仮定法をエリック・クラプトンの Tears in Heaven でマスターする

英語の仮定法が日本人にはどうして難しく感じられるのか? 
その理由ははっきりしている。英語と日本語が本質的に違うからだ。しかし、どのように違うのか、あまり意識化できていないように思われる。

日本語では「もし・・・」という場合、その仮定が実現するか実現しないか明確に意識していない。他方、英語ではその区別をはっきりとする。その違いは大きい。

さらに、仮定法はif で先導される条件を示す部分ではなく、その結果を示す部分のこと。しかし、仮定法という用語は、どうしても「もし・・・」という条件を提示する部分を連想させてしまう。そのために、if以下の文がが仮定法だと思う誤解を生んでいる。

ここでは、エリック・クラプトンの« Tears in Heaven »を聞きながら、仮定法をマスターしてしまいたい。

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現代の若者が使うフランス語

どの言葉も変化しますが、現代の若者たちのフランス語も次々に新しい言葉を作り出しているようです。

“Hassoul, ça veut dire tranquille”.
“faire belek, c’est faire attention”.
“un maxeur, c’est quelqu’un qui est toujours dans l’abus”.
“En chap-chap, c’est plus une expression ivoirienne, mais ça veut dire faire quelque chose de façon rapide”.
“J’ai dead ça” veut dire qu’on a réussi. 
“Je suis chockbar” signifie être choqué.

Il y a 40 ans, on demandait déjà aux jeunes ce que voulait dire “keufs” (policiers), lascars ou encore “gadjo” (jeune homme).

日本人にはなぜ英語やフランス語の習得が難しいのか? 構文について考える

日本人にとって、英語やフランス語を習得するのは難しい。その理由は何か?

答えは単純明快。
母語である日本語は、英語やフランス語と全く違うコンセプトに基づく言語。そのことにつきる。

この事実は当たり前のことだが、しかし、日本語との違いをあまり意識して考えることがないために、どこがわかっていないのかがはっきりと分からないことも多い。
例えば、英語の仮定法と日本語の条件設定との本質的な違いを理解しないまま、if を「もし」と結び付けるだけのことがあり、そうした場合には、大学でフランス語の条件法を学ぶ時も、英語のifで始まる文と同様にsiで始まる文が条件法の文だと思ってしまったりする。

これは一つの例だが、ここでは問題を語順に絞り、日本語とフランス語の違いがどこにあり、日本語を母語にする人間にとって、どこにフランス語習得の難しさがあるのか考えてみよう。

ちなみに、これから検討していく日本語観は、丸山真男が「歴史意識の中の”古層”」の中で説いた、「つぎつぎに/なりゆく/いきおい」という表現によって代表される時間意識に基づいている。丸山によれば、日本人の意識の根底に流れるのは、常に生成し続ける「今」に対する注視であり、それらの全体像を把握する意識は希薄である。
そうした意識が、日本語という言語にも反映しているのではないかと考えられる。

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学ぶこと 考えること 井筒俊彦「語学開眼」

井筒俊彦の「語学開眼」という子供時代の思い出を語るエセーは、実際の教育現場では「学ぶ」ことから「考える」ことにつなげるのいかに難しいことかを、分かりやすい言葉で教えてくれる。

それは、井筒が中学校二年生の時のエピソード。

今でもよく憶(おも)い出す。中学2年生、私は劣等生だった。世の中に勉強ほど嫌いなものはない。学問だとか学者だとか、考えただけでもぞっとする。特に英語が嫌いだった。(井筒俊彦「語学開眼」『読むと書く』所収)

教室の中では英文法の授業の最中で、大学出たての若い先生が熱心に何やら喋(しゃべ)ていたけれど、その言葉は私の耳には入ってはいなかった。ふと、我にかえった。「イヅツ」「イヅツッ!」と先生の声が呼んでいた。「どこを見ている。さ、訳してごらん。」
見上げると黒板に、 There is an apple on the table.と書いてある。なぁんだ、これくらいなら僕にだって。
「テーブルの上にリンゴがあります。」
「うん、それじゃ、これは」と言って先生は、There are apples on the table.と書いた。
「テーブルの上にリンゴがあります。」

正解? 不正解?

an appleに続けてapplesと書いた先生の意図は、生徒に単数と複数の区別を教えることにある。
井筒少年の訳では、その区別ができていない。試験であればバツがつく。

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国語の授業と読むこと

小学校から高校までの「国語」の授業で、読むことの訓練が12年間にわたり行われ、誰でも読むことはできるようになっている。実際、日本の識字率は高い。
他方で、「国語」教育の問題点も指摘されている。例えば、長文読解ができない、論理的な文章が書けない、発信力が弱い、本(文学)を好きにならない、国語嫌いが多い、等。

そうした現状に関して考えて行くヒントとして、生徒の印象に残った作品名を上げてみると、中学と高校で次のような結果らしい。
中学:竹取物語、走れメロス、奥の細道、等。
高校:羅生門、こころ、山月記、舞姫、檸檬、源氏物語、等。

こうした作品が心に残っているとしたら、生徒にとって大きな意味があるに違いない。

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『竹取物語』は、日本人的な心の在り方を私たちに教えてくれる。
一般的に、かぐや姫が月に戻っていくところで話は終わるように思われているが、実はその続きがある。
月に戻る前、姫は育ての親に対する愛情を強く示し(人情)、愛する帝には不老不死の薬を残していく。その薬を、帝は富士(不死)の山に投げ入れる。
そうしたエピソードは、月よりも地上を、不死=永遠よりも現実=時間を好む、日本的な心性を表現している。

太宰治の『走れメロス』と芥川龍之介の『羅生門』は、対極的な倫理観を提示する。一方は、真実の友情の物語。他方は、下人が生き延びるために老婆を犠牲にするエゴイスムの物語。
『羅生門』と同じように、他者の犠牲の上で生き延びる「私」という枠組みは、夏目漱石の『こころ』や森鴎外の『舞姫』にも見られる問題であり、多くの犠牲を出した第二次世界大戦の後の、日本人の心の在り方を考えるきっかけになる。

エゴイスムに孤独感が加わると、中島敦の「山月記」になる。
そして、生きることの孤独感は、「えたいの知れない不吉な塊」が心を常に押さえつけることをテーマにした梶井基次郎の『檸檬』や、「月夜の晩に、拾つたボタンは/どうしてそれが、捨てられようか?」と歌う中原中也の詩「月夜の浜辺」によっても取り上げられる。

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こうした作品を通して、国語教育を受ける一人一人の子供たちは、濃淡の差はあれ、自分の中に抱える切実な問題を感じ取っているだろう。
そして、それぞれの作品を通して、自分自身について考え、人とのつながりについて考え、話し合うことで、「自分の考えを根拠に基づいて的確に表現すること」の訓練ができるに違いない。

しかし、現実には、「長時間かけても文章を理解できるようにならない」子供たちが多数発生し、読むことも、言葉で論理的に表現することも十分にできない、という統計結果が出ている。

せっかく素晴らしい文学作品に接しながら、なぜ本嫌いが増え、読書離れが加速しているのかを考えるために、国語教育の中で、文学作品について行われるテストの問題を覗いてみよう。

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日本語の文字表記(漢字、ひらがなの併用)と日本的精神

日本語の最も大きな特徴は何かと言えば、漢字、ひらがな、カタカナ、アルファベットなどを併用することだといえる。その歴史的な過程を辿ると、それが日本的な精神と関係していることがわかってくる。

古代の日本は無文字社会であり、活字は中国大陸から移入したものだった。「漢」字という名称がその由来を現在でも残している。英語で漢字はChinese characters、フランス語ではcaractères chinois。現在の日本で使われている漢字は中国語の漢字とはかなり違っているが、起源が同じであることに変わりはない。

しかし、私たちは漢字が外来のものだと意識することなく使っている。そのことが、日本的な精神の一つの表現かもしれないのだ。

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日本語と英語・フランス語の根本的な違い 概念と状況

英語やフランス語を勉強してもよくわからないことがある。その理由は簡単で、日本語に同じ概念がないこと。

例えば、中学や高校で過去形と現在完了形を教わったのだが、私には違いが明確にわからなかった。大学のフランス語の授業で接続法を教わったが、ただ活用を覚えただけだった。
それ以外にも色々とあるのだが、なぜそうしたことが起こるかといえば、日本語表現がベースとするものと、英語やフランス語のベースとするものが違っているからだ。

そうした違いを、実際の生活の中でも感じたことがある。
フランスで話をしていて、神戸に住んでいると言うと、東京から何キロ?と聞かれることがあった。そんな時、私は何キロか知らないので、新幹線で3時間ちょっとと答えたりしていた。
また、初めてフランスに来たのはいつかと質問されると、20数年前とか、もう随分前のこと、とか答えていた。しかし、フランス人の知り合いは、1998年といった年号で言うことが多いことに気づいた。

ここからわかるのは、日本語を母語にする者にとって、物事を表現するときの基準が「私」にあり、空間的にも、時間的にも、「私」からの距離を表現する傾向にあるということ。
逆に言うと、「私」とは直接関係しない客観的な基準に基づいて表現することが少ないことになる。
実際、「コロナでマスクをしないといけなくなったのはいつから?」と聞かれて、「もうけっこうになる」とか「2・3年前から」と答え、年号で答えることは少ないだろう。

こうした違いがあるにもかかわらず、日本語と英語、フランス語などの根本的な違いがあまり語られないのには理由がある。
現在の国語(日本語)文法が整えられたのは明治時代初期のことであり、西洋の文典に基づき日本語の文法が編纂された。つまり、国文法は西洋語の文法の応用として作られた。
そのために、日本語と欧米の言語の根本的な違いが見過ごされる傾向にあると考えられる。

ここでは、その違いについて簡単に考えてみたい。

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日本語の音楽を聴く

音のない言葉を考えることはできない。
声に出して話したり読んだりする時だけではなく、頭の中で何かを考える時にも音があり、それらの音の繋がるリズムを感じている。

日本語を母語とする者にとっては、5/7を基本とするリズムがごく自然に心地よく感じられる。

ひさかたの 光のどけき 春の日に 静心(しづごころ)なく 花の散るらむ(紀友則)

私の上に 降る雪は/真綿(まわた)のやうで ありました(中原中也)

これらの言葉の魅力は、意味だけではなく、口調の良さによってももたらされている。
言葉たちが音楽を奏で、私たちはその音楽に耳を傾けて、うっとりするといってもいいだろう。

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