ひさかたの光のどけき春の日に —— 和歌の音と意味

紀友則の有名な和歌「ひさかたの 光のどけき 春の日に しづごころなく 花の散るらむ」には、音と意味のつながりが感じられる。

和歌の分析ではあまり音に意識を向けることはないかもしれないが、フランス語の詩の分析では音と意味の関係に注目することがよくあるので、それに倣ってこの有名な和歌を見ていこう。

まず音に注目すると、語頭にハ行の音の反復が見られる。
ヒさかた ヒかり ハる ヒに ハな  (ヒ・ヒ・ハ・ヒ・ハ)

もう一つの反復はノの音。
ひさかたノ ノどけき 春ノ 花ノ

こうした音の反復が、歌の意味に抑揚を与えている可能性がある。

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マラルメ 「扇 マラルメ夫人の」 Stéphane Mallarmé « Éventail de Madame Mallarmé » 扇と詩

「扇 マラルメ夫人の」は、1891年1月1日にマラルメが妻のマリアに送った詩で、実際に扇の上に書かれている。つまり、扇が詩なのだ。
そして、それに対応して、詩の内容も、扇をあおぐことが詩の言葉を仰ぎ出す様子を歌っている。

Avec comme pour langage
Rien qu’un battement aux cieux
Le futur vers se dégage
Du logis très précieux

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石川啄木 思い出の力

石川啄木には、故郷である渋民村(しぶたみむら)を歌った美しい歌がいくつもある。

ふるさとの 山に向かひて 言うことなし ふるさとの山は ありがたきかな

故郷を遠く離れ、子ども時代を過ごした故郷を思えば、懐かしさが湧き上がってくる。

かにかくに 渋民村は 恋しかり おもひでの山 おもひでの川

思い出の山、思い出の川は美しく、懐かしい。

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ランボー マラルメ 詩句の仕組み

フランス文学において言葉の音楽性が重視されるが、とりわけ詩に関しては、意味と同等の重要性を音が持つ。

そうした中でも、19世紀後半の二人の詩人ランボーとマラルメの詩句は音楽的に大変に美しく、意味を理解するのはしばしば非常に困難だが、それにもかかわらず高く評価されている。
というか、最初は理解が難しくても、音楽的に美しいおかげで、なんとか意味の深みにまで到達したいという気持ちにさせられる、と言ってもいいかもしれない。

当たり前のことだが、翻訳では詩句の音楽性を感じることができない。翻訳された詩の最も大きな問題はそこにある。詩の理解にはフランス語で読む必要があるのはそのため。

ただし、一口に音楽性と言っても、ランボーとマラルメの音楽はかなり違っている。ランボーの曲はすぱっとした直線を感じさせるが、マラルメの曲は柔らかく丸みを感じさせる。

その点を前提にした上で、詩句の意味的な理解を考えてみると、二人の詩句の難しさが別のところから来ることがわかってくる。
ランボーの詩句では語彙の不整合が、マラルメの詩句ではそれに加えて構文の破壊が、意味の伝達を妨げる。

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モーパッサンからネルヴァル、ランボーへのウインク

1892年の初頭にモーパッサンが精神に異常をきたした時、治療にあたったのはエミール・ブランシュ博士だったが、博士はずっと以前にはジェラール・ド・ネルヴァルの治療も行っていた。
ネルヴァルは、エミール・ブランシュ博士の父親エスプリ・ブランシュ博士にお世話になったこともある。

モーパッサンはそのことを知っていたに違いない。直接ネルヴァルのことを話題にすることはなかったようだが、精神疾患を取り上げた「オルラ」の中には、ネルヴァルに向かってウインクをしているような記述がある。

その理由を私なりに推測すると、一般的に狂気と見なされる世界観と、詩の生み出す美とが連動していることを、モーパッサンなりに示そうとしたからだと思われる。
同じ箇所に、アルチュール・ランボーに向けてのウインクもあることから、「狂気ー詩ー美」の繋がりがよりはっきりと示される。

問題の箇所は、目に見えないが確かに実在すると感じられる存在をオルラと名付け、それが世界を構成する4つの元素(水、火、大地、空気)と同様の、なんらかの元素ではないかと自問した後に記されている。

でも、あなたはこう言うかもしれない。蝶だ! 空飛ぶ一輪の花だ! ぼくはといえば、一匹の蝶を夢見る。宇宙と同じ位大きい。羽根の形も、美も、色彩も、動きも、描くことさえできない。でも、ぼくには見える。・・・・蝶は、星から星へと向かい、その飛翔の軽やかで調和のとれた息吹で、星々を、新鮮でかぐわしいものにする! ・・・天上の人々は、蝶が通り過ぎるのを目にし、恍惚となり、魂を奪われる!・・・(「オルラ」)

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19世紀後半に活躍した芸術家たち ー 同じ年に生まれて

私たちが芸術作品や文学作品に触れるとき、普段はあまり画家や作家の生まれた年齢を考えることはないのだが、実は作品にとってかなり大きな要素になっている。
というのも、同じ世代に属していると、一つの時代の雰囲気の中で育ち、同じような教育を受けているからである。
小澤征爾と大江健三郎の対談集『同じ年に生まれて』に倣って、19世紀後半に活動の中心が位置する芸術家や作家たちを、出生年順に列挙してみよう。

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小林秀雄 「実朝」 知る楽しみ 2/2

文学部の大学院生だった頃、「文学の研究をして何の意味があるのだろうか?」という疑問が湧き、「研究を通して対象とする作品の面白さや価値を人に伝えること」という言葉を一つの答えとしたことがあった。

最近、それを思い出したのは、二つのきっかけがある。
一つは、ドガの「14歳の小さな踊り子」に関するユイスマンスの言葉によって、その作品の美を感じたこと。 ドガ 「14歳の小さな踊り子」 知る楽しみ 1/2

もう一つが、小林秀雄の解説で、源実朝の一つの和歌の詠み方を教えられたことだった。

箱根路を わが越えくれば 伊豆の海や 沖の小島に 波の寄る見ゆ

この和歌を前にして、私には、海に浮かぶ小さな島に波が打ち寄せる風景しか見えてこない。それ以上のことはまったくわからない。

そんな私に対して、小林秀雄はこう囁く。

大きく開けた伊豆の海があり、その中に遥かに小さな島が見え、またその中にさらに小さく白い波が寄せ、またその先に自分の心の形が見えて来るという風に歌は動いている。(小林秀雄「実朝」)

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小林秀雄 ベルクソン 「生」の体験

ベルクソンは、時計によって測られる「時間」とは別に、私たちが内的に体験する時間を「持続」と名付け、その直接的な「生」の体験を思索の中心に置いた。

小林秀雄は、アルチュール・ランボーについての卒業論文を書いて以来、「生」の内的な体験が芸術の本質であるという19世紀後半に成立した芸術観を体得し、ベルクソンの思想にも最初から大きな親近感を示した。
そして、いかにも小林らしく、ベルクソンについて語る時でも、彼の思索の基礎には彼自身の体験がずっしりと横たわっている。

youtubeに、小林がある講演会でベルクソンについて語る部分がアップされているので、10分あまりの内容をを聞いて見よう。(小林の話し方はしばしば落語家の志ん生にそっくりだと言われる。)

この講演の内容は、「信じることと知ること」に掲載されている。

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ベルクソン 「生」の哲学

アンリ・ベルクソンは1859年に生まれ、1889年に発表した最初の著作『意識に直接与えられたものについての試論』から出発して、「生(vie)」を中心とした哲学を展開した。

その哲学は19世紀後半における世界観の大転換の流れに沿ったものであり、ベルクソンの生の哲学を知ることは、19世紀後半以降の新しい世界観を知るために非常に有益だといえる。しかし、彼の著作やそれらの解説書はかなり細かな議論が積み重ねられ、すぐに明快な理解に達することができないことが多い。

ここでは、文学や絵画など芸術を理解するという視点に絞り、ベルクソン哲学の核心と19世紀後半の世界観の大転換について考えてみたい。

ベルクソンの生の哲学は、時間に関する考察から始まった。
私たちは普通、時間を知りたければ時計を見る。夕方の7時に誰かと会う約束をすれば、会うことができる。時間は誰にも共通で測定可能な基準だと考えられている。
その一方で、退屈な時には時間はなかなか経たず、楽しい時にはアッと言う間に過ぎてしまう。そうした内的な時間は、個人によっても、その時々によっても感じ方が違い、長くなったり短くなったりする。

Dali Persistance de la mémoire

一般的には、時計の時間が科学的に正確な時間であり、内的な時間は主観的な感じにすぎないと考えられてきたし、現在でもそのように見なされる傾向にある。
それに対して、ベルクソンは、実感する時間こそが「実在するもの(le réel)」であると主張し、「持続(durée)」と呼んだ。
それは、「生(vie)」の途切れのない流れとも考えられる。

サルバドール・ダリの「記憶の固執」(1931)は、ベルクソンの言う持続の世界を実感させてくれる。

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小林秀雄的思考と皮肉 — 考える葦のアイロニー

卒業論文でアルチュール・ランボーを取り上げて以来、小林秀雄の根底には常にランボーがいたのではないかと、私は個人的に考えている。

その基本となるのは、一般に認められていることから距離を置き、皮肉(アイロニー)を投げつける姿勢。
その言葉の、ランボーで言えば中高生的な乱暴さが、小林なら江戸っ子的な歯切れのよさが、魅力的な詩句あるいは文を形作っている。

そして、その勢いに飲まれるようにして、読者は、分かっても分からなくても、詩句や文の心地よさに引き込まれ、彼らのアイロニーを楽しむことになる。

小林秀雄にはパスカルに関する興味深い文があり、その冒頭に置かれた「人間は考える葦である」に関する思考は、「小林的なもの」をはっきりと示している。

まずは、小林の考えに耳を傾けてみよう。

人間は考える葦だ、という言葉は、あまり有名になり過ぎた。気の利いた洒落(しゃれ)だと思ったからである。或る者は、人間は考えるが、自然の力の前では葦の様に弱いものだ、という意味にとった。或る者は、人間は、自然の威力には葦の様に一とたまりもないものだが、考える力がある、と受取った。どちらにしても洒落を出ない。(「パスカルの「パンセ」について」昭和16年7月)

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