ドゥニ・ディドロ 盲人に関する書簡 Denis Diderot Lettres sur les aveugles à l’usage de ceux qui voient 唯物論的世界観

Van loo, Denis Diderot

18世紀の思想を代表する『百科全書』の編集において中心的な役割を果たしたドゥニ・ディドロ(1713−1784)は、物質主義的で科学主義的精神が、伝統的な権威に基づく絶対的な価値観を覆し、個としての人間の自由に価値を置く思考へと続くことを示した。

ディドロは唯物論者と言われる。
唯物論とは、世界の全ての現象を物質的な要素が相互に関連によって解明できるとする思想であり、精神現象の根底にも物質があり、物質が精神に先立つと考える立場。
一つの例を挙げれば、肉体(物質)に依存する五感が、知覚だけではなく、知識、感情、道徳観等の根底にあり、全てを決定するものと見なす。

1749年に出版された『盲人に関する書簡、目の見える人々用(Lettres sur les aveugles à l’usage de ceux qui voient)』では、唯物論的な視点に立ち、視覚を持たない人間の世界観が、視覚を備えた人間の世界観とは違うことが、書簡の形で示されている。
その中で、ディドロは、感覚が精神性に先立ち、感覚の違いにより道徳観も世界観も違うことを具体的に示した。

続きを読む

科学的な自然観 フォントネル 複数世界に関する対話 Fontenelle Entretiens sur la pluralité des mondes 

Fontenelle

フォントネル(1657−1757)は、17世紀の後半から18世紀にかけて、合理的で科学的な精神を、わかりやすく人々に伝える役割を果たした。

1686年に発表した「複数世界に関する対話(Entretiens sur la pluralité des mondes)」の中では、ある侯爵夫人との対話という形で、天体に関する科学的な知見について語っている。

ここでは、「自然(nature)」を科学的に説明する一節を読んでいくが、その前に、合理的で科学的な精神はルイ14世の時代を通して徐々に確立していった思考であることを思い出しておこう。

17世紀後半、デカルト哲学に代表される「理性(raison)」を中心に据えた思考法と、世紀の後半に展開されたニュートン物理学等が連動し、「科学的な思考」が出来上がりつつあった。

それ以前には、ある出来事の解明には、原因の追及が行われた。アリストテレスであれば、ある物が落下する(運動する)ためには、それを動かす物が必要であり、その原因を探っていくと、究極的には最初に動かす動者が存在するとされる。

Newton’s tomb monument

しかし、アイザック・ニュートンは、動者といった仮説的な原因を探るのではなく、観察と実験によって、引力がどのような法則によって機能するのかを明らかにしようとした。
「なぜ?」ではなく、「どのように?」という問いが、様々な現象に対して検証可能な普遍的原理の解明へと導くのである。

フォントネルは、そうした視点に立ち、「複数世界に関する対話」の第一部で、自然の活動について説明する。

続きを読む

18世紀的批判精神の基礎 フォントネル 神託の歴史 Fontenelle Histoire des Oracles 理性による事実の確認

Fontenelle

17世紀前半、デカルトは、「我思う、故に我在り(Je pense, donc je suis.)」と述べ、「考える(penser)私」の中心にある「理性(raison)」が人間の本質であるとした。
https://bohemegalante.com/2020/05/13/descartes-discours-de-la-methode-1/

その時代以降、理性を中心とした思考法が重視されるようになり、18世紀には知識によって人々を照らすことを目指す啓蒙思想が発展し、科学の進歩が人類の幸福につながると考えられる時代になった。

そうした流れの中で、17世紀後半から18世紀前半に活躍したフォントネル(1657ー1757)は、批判的な精神を発揮し、それまで権威の言うがままに信じてきてきたことを、理性的な思考によって見直そうとした。

『神託の歴史(Histoire des Oracles)』(1687)では、古代の神々への信仰(異教)で語られる超自然な出来事、神秘や奇跡を取り上げ、それらが幻影(illusion)にすぎないことを証明しようとした。

続きを読む

ネルヴァル 『東方紀行』 ギリシアの島々で古代の神々を夢想する Gérard de Nerval Voyage en Orient キリスト教と古代の神々の争い

ジェラール・ド・ネルヴァルは、1842年の末から1843年の末にかけての約一年間、オリエントの国々に滞在した。
マルセイユから船に乗り、ギリシアを通りエジプトに到着。その後、シリアからトルコへと向かい、イタリアを経て、マルセイユに戻る。地中海をぐるりと回る長い旅。
その体験に基づき、手始めとして、1844年にギリシアの紀行文を発表した。

後に『東方紀行(Voyage en Orient)』に収められることになるその旅行記は、古代文明の中心地ギリシアの相応しく、古代の神々への思いを強く押し出している。
そのことは、フランス革命でキリスト教に対する激しい攻撃が行われた後の社会で、新しい宗教感情を模索する動きと対応していた。

そうした宗教感情のあり方は、日本の読者には縁遠いように思われる。
しかし、複数の神々を信じるのか、神はただ1人と考えるかと問われると、ネルヴァルの試みがすっと腑に落ちてくる。

複数の神と唯一の神

日本の宗教感情の中では、神様が数多くいるのが普通である。
ジブリ・アニメ「千と千尋の神隠し」において、八百万の神がお風呂に入りに来ると言われると、何となく安らぎを感じる。
それに対して、神は唯一絶対の存在で1人だけと言われると、威圧感を感じるし、違和感がある。

続きを読む

ボードレール 想像力の美学 1859年のサロン Baudelaire Salon de 1859 De l’imagination

ボードレールの「1859年のサロン」は、想像力を中心に据えた絵画論。
その中で、「1846年のサロン」で提示した絵画論(自然を素材として、画家の内部の超自然(surnaturel)なイメージに基づいた創造物を制作する)という、最も基本的な概念を変更することはない。

しかし、今回は、「想像力(imagination)」を人間の「諸能力の女王(la reine des facultés)」と定義し、想像力との関係から、描かれる対象、画家、画法、作品の関係を考察する。
そして、創造の目的が、最終的に、新しい世界(un monde nouveau)、新しさの感覚(sensation du neuf)を生み出すことであるとする。

1846年の芸術論は、ロマン主義とは何かとい問いかけに対するボードレールなりの回答であった。それに対して、1859年の芸術論は、現代性(モデルニテ)と呼ばれる新しい芸術観の出発点となっている。

続きを読む

ネルヴァル 『オーレリア』 Gérard de Nerval Aurélia コレスポンダンスと詩的散文

ジェラール・ド・ネルヴァルは、何度か精神の病に襲われ、最後は自ら死を選んだ。そのために、現在でも狂気と幻想の作家と呼ばれることがある。そして、そうしたレッテルがあるために、彼の作品は特定の色眼鏡を通して読まれ、理解が妨げられる傾向にある。

ネルヴァルは、若い時代から韻文詩を書いていた。その中で、詩法の規則に従い、音節数や韻を踏んでさえいれば、それだけで詩といえるのかどうか問いかけるようになった。その結果、散文でも詩情(ポエジー)を生み出すことができるのではないかと考えた。

彼が目指したのは、後にボードレールがするように、ジャンルとしての「散文詩」を作ることではなかった。散文というジャンルの中で、詩的散文(écriture poétique)により、詩情(ポエジー)を生み出すことだった。

このことは、ネルヴァルが何度か精神病院に収容され、最晩年の1855年に発表された『オーレリア』の中では、いかにも自伝のように見える作品の中で、狂気の体験について語っていることもあり、なかなか理解されてこなかった。
しかし、特定の偏見なしに彼の文章を読むと、ネルヴァル的散文の美を感じ取ることができるようになる。

ここでは、『オーレリア』の第2部6章の中で語られる、「私(je)」が精神病院で日々を過ごしている時の一節を読み、ネルヴァルが何を表現しようとしたのか見ていこう。

続きを読む

ボードレール 夕べの黄昏 (散文詩 1862年) Baudelaire Le Crépuscule du soir (en prose, 1862) 散文詩について

「夕べの黄昏(Le Crépuscule du soir)」は、シャルル・ボードレールが最初に公けにした散文詩。
1855年、『フォンテーヌブロー』という選文集の中で、韻文詩「二つの薄明(Deux crépuscules)」の後ろに置かれ、4つの詩節からなる散文だった。
https://bohemegalante.com/2020/08/31/baudelaire-crepuscule-du-soir-en-prose-1855/

その後、詩人は別の機会を見つけ、何点かの散文詩を発表し、1862年になると、『ラ・プレス(La Presse)』という新聞に、26点の作品を4回に分けて掲載しようとした。
その際、3回目までで20作品が公けにされたが、連載4回目の掲載はなかった。しかし、ゲラ刷りが残っていて、その中に「夕べの黄昏」も含まれている。
しかも、そのゲラ刷りにある詩は、1855年の版とはかなり異なっている。全く違うと言っていいほど、違いは大きい。

『ラ・プレス』の連載の最初の回では、文学部門の編集責任者だったアルセーヌ・ウセーに向けられた献辞の手紙が置かれ、ボードレールが「散文詩というジャンル」を確立しようとする意図が語られている。

アルセーヌ・ウセー宛の手紙と、「夕べの黄昏」の2つの版を検討することで、1862年の時点でボードレールの考える散文詩がどのようなものなのか、探ってみよう。

続きを読む

ボードレール 夕べの黄昏 (散文詩 1855年) Baudelaire Le Crépuscule du soir (en prose, 1855) 自然と都市

シャルル・ボードレールは、「夕べの黄昏(Le Crépuscule du soir)」と題される詩作品を二つ書いている。
最初は韻文。発表されたのは1852年。
ただし、その際には、「二つの薄明(Les Deux Crépuscules)」という題名で、昼の部分と夜の部分が連続していた。

1855年になると、韻文詩から出発し、散文詩も執筆する。それは、ボードレールが最初に公にした散文詩だった。

発表されたのは、フォンテーヌブローの森を多くの人の散策の地とするのに貢献したクロード・フランソワ・ドゥヌクール(Claude-François Denecourt)に捧げられ、数多くの文学者たちが参加した作品集『フォンテーヌブロー(Fontainebleau)』(1855)の中。
最初に「二つの薄明」という題名が掲げられ、「夕べ(Le Soir)」と「朝(Le Matin)」と題された韻文詩が置かれる。その後、散文の「夕べの黄昏(Le Crépuscule du soir)」と「孤独(La Solitude)」が続く。

Théodore Rousseau, Sortie de forêt à Fontainebleau, soleil couchant

『フォンテーヌブロー』を読んでみると、不思議なことに気が付く。
ドゥヌクールの貢献を讃えるため、自然の美を歌う作品が集められている中で、ボードレールだけが都市をテーマにしている。フォンテーヌブローとは何の関係もない。

その理由を探っていくと、彼が韻文詩と同時に散文でも詩を書き始めた理由が分かってくるかもしれない。

続きを読む

ボードレール 夕べの黄昏 (韻文詩) Baudelaire Le Crépuscule du soir 闇のパリを詩で描く

シャルル・ボードレールは、自分たちの生きる時代のパリの生活情景を詩の主題として取り上げ、美を生み出そうとした。
こうした姿勢は、『1846年のサロン』の最終章「現代生活の英雄性(Le Héroïsme de la vie moderne)」の中で、同時代の絵画の美を提示する際に示されたものだった。

ボードレールの詩の対象となるパリの情景は、人々の日常生活、その中でも、一般には悪であり、醜いと見なされるもの。
韻文詩集の『悪の花(Fleurs du mal)』という題名が、そのことを明確に現している。

19世紀半ばのバリの様子は、幸いなことに、マルセル・カルネ監督の映画「天井桟敷の人々(Enfants du paradis)」で見ることができる。(脚本は、詩人のジャック・プレベール。)

続きを読む

ボードレール 現代生活の英雄性 1846年のサロン 永遠の美から時代の美へ

『1846年のサロン』の最終章「現代生活の英雄性(L’Héroïsme de la vie moderne)」で、ボードレールは、彼の考える美を定義した。

伝統的な美学では、美とは唯一で絶対的な理想と考えられてきた。例えば、ヴェルヴェデーレのアポロン、ミロのビーナス。

理想の美は、いつの時代に、どの場所で、誰が見ようと、常に美しいと見なされた。

それに対して、19世紀前半のロマ主義の時代になり、スタンダールやヴィクトル・ユゴーが、それぞれの時代には、その時代に相応しい美があると主張した。
ボードレールも、美は相対的なものであるという考え方に基づき、自分たちの生きる時代の美とは何か、彼なりの結論を出す。
その例として挙げるのは、ポール・ガヴァルニやウージェーヌ・ラミ。

ボードレールは、こうした美のあり方を、「現代生活の英雄性」と名付けた。

続きを読む