Ryūnosuke Akutagawa “Le Sourire des dieux” 3/7 芥川龍之介 「神々の微笑」

Voici la suite de la partie 2/7.

人影は見る間まに鮮あざやかになった。それはいずれも見慣れない、素朴そぼくな男女の一群ひとむれだった。彼等は皆頸くびのまわりに、緒おにぬいた玉を飾りながら、愉快そうに笑い興じていた。内陣に群がった無数の鶏は、彼等の姿がはっきりすると、今までよりは一層高らかに、何羽も鬨ときをつくり合った。同時に内陣の壁は、――サン・ミグエルの画えを描かいた壁は、霧のように夜へ呑まれてしまった。その跡には、――

(あおぞら文庫:https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/68_15177.html)

 Cette ombre humaine devint soudainement une figure explicite. C’était un groupe d’hommes et de femmes, tous inconnus et simples. Avec des bijoux enfilés autour du cou, ils riaient et s’amusaient joyeusement. Les innombrables coqs, pullulant à l’intérieur du sanctuaire, se lancèrent davantage des cris de victoire entre eux. Alors, les murs du sanctuaire, – les murs sur lesquels Saint Michel était peint, avaient été avalés comme brouillard dans la nuit. Et sur leurs traces, ….

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Ryūnosuke Akutagawa “Le Sourire des dieux” 2/7 芥川龍之介 「神々の微笑」

Voici la suite de la partie 1/7.

 三十分の後のち、彼は南蛮寺なんばんじの内陣ないじんに、泥烏須デウスへ祈祷を捧げていた。そこにはただ円天井まるてんじょうから吊るされたランプがあるだけだった。そのランプの光の中に、内陣を囲んだフレスコの壁には、サン・ミグエルが地獄の悪魔と、モオゼの屍骸しがいを争っていた。が、勇ましい大天使は勿論、吼たけり立った悪魔さえも、今夜は朧おぼろげな光の加減か、妙にふだんよりは優美に見えた。それはまた事によると、祭壇の前に捧げられた、水々みずみずしい薔薇ばらや金雀花えにしだが、匂っているせいかも知れなかった。彼はその祭壇の後うしろに、じっと頭を垂れたまま、熱心にこう云う祈祷を凝らした。

(あおぞら文庫:https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/68_15177.html)

Une demie-heure après, il consacrait une prière à Deus dans le sanctuaire du Temple Nanban. Là, il n’y avait qu’une lampe suspendue de la voûte. Sous sa lumière, sur les murs de fresques qui entouraient le sanctuaire, Saint Michel se disputait le corps de Moïse avec le Diable des Enfers (n. 4). Et pourtant, le vaillant Archange, et même le rugissant Diable, paraissaient plus gracieux que d’habitude, probablement sous l’effet d’une vague lumière de ce soir. Ou bien, ce devait être l’effet du senteur de la fraîcheur des roses et des genêts. Derrière l’autel, avec la tête baissée, il récita ardemment sa prière.

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Ryūnosuke Akutagawa “Le Sourire des dieux” 1/7 芥川龍之介 「神神の微笑」

” Le Sourire des dieux ” de Ryūnosuke Akutagawa est une nouvelle, publiée en 1922 dans le numéro de janvier de la revue littéraire ‘Shin Shosetsu (Nouveau Roman)’, et reprise dans le recueil intitulé Les Vêtements de printemps en 1923.

Ici, je me permets de vous proposer d’abord ma traduction, puis le texte japonais y correspondant, ensuite les notes explicatives.

神神の微少

ある春の夕ゆうべ、Padre Organtino はたった一人、長いアビト(法衣ほうえ)の裾すそを引きながら、南蛮寺なんばんじの庭を歩いていた。
 庭には松や檜ひのきの間あいだに、薔薇ばらだの、橄欖かんらんだの、月桂げっけいだの、西洋の植物が植えてあった。殊に咲き始めた薔薇の花は、木々を幽かすかにする夕明ゆうあかりの中に、薄甘い匂においを漂わせていた。それはこの庭の静寂に、何か日本にほんとは思われない、不可思議な魅力みりょくを添えるようだった。
 オルガンティノは寂しそうに、砂の赤い小径こみちを歩きながら、ぼんやり追憶に耽っていた。羅馬ロオマの大本山だいほんざん、リスポアの港、羅面琴ラベイカの音ね、巴旦杏はたんきょうの味、「御主おんあるじ、わがアニマ(霊魂)の鏡」の歌 — そう云う思い出はいつのまにか、この紅毛こうもうの沙門しゃもんの心へ、懐郷かいきょうの悲しみを運んで来た。彼はその悲しみを払うために、そっと泥烏須デウス(神)の御名みなを唱えた。が、悲しみは消えないばかりか、前よりは一層彼の胸へ、重苦しい空気を拡げ出した。

(あおぞら文庫:https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/68_15177.html)

Le sourire des dieux

Un soir de printemps, Padre Organtino (n.1) marchait tout seul, en trainant derrière lui le bout de son vêtement sacerdotal, dans le jardin du temple NanBan (n.2).
Le jardin était abondant en plantes occidentales telles que des roses, des oliviers ou des lauriers, parmi les pins et les cyprès. En particulier, les rosiers, commençant à fleurir, exhalaient leur doux parfum sous une faible lumière du crépuscule qui obscurcissait les arbres, ce qui semblait ajouter à la tranquillité du jardin un charme mystérieux, quelque chose de peu japonais.
Organtino, à l’air triste et marchant dans un sentier de sables rouges, était plongé vaguement dans ses souvenirs. La sainte siège de Rome, le port de Lisbonne, le son du violon portugais appelé Rabeca, le goût des amandes, la chanson « Seigneur, tu es le Miroir de mon Âme » — tous ces souvenirs amenaient, dans le cœur de ce prêtre aux cheveux rouges, une tristesse nostalgique . Dans l’espoir de la dissiper, il se dit doucement le nom de Deus (Dieu). Mais, bien loin de disparaître, la tristesse s’étendait encore davantage, pesant lourdement sur sa poitrine.

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芥川龍之介に教えてもらう 芭蕉の俳句 「調べ」の美しさ

芥川龍之介が芭蕉の俳句について書いたエセーの中に、俳句の言葉が奏でる音楽の美しさに触れた章がある。
その章は「耳」と題され、次のように始まる。

 芭蕉の俳諧を愛する人の耳の穴をあけぬのは残念である。もし「調べ」の美しさに全然無頓着(むとんじゃく)だったとすれば、芭蕉の俳諧の美しさもほとんど半ばしかのみこめぬであらう。

耳の穴が塞がっていては、音が聞こえない。芭蕉の俳句を読む時、「調べ」の美しさに耳を塞いでいるのでは、あまりにもったいない。
芥川は、俳句の美しさの半分が「意味」にあるとしたら、後の半分は「調べ」にあると考えている。

その後、芥川は、3つの俳句を取り上げる。

夏の月 御油(ごゆ)より出でて 赤坂(あかさか)や

年(とし)の市(いち) 線香買ひに 出(い)でばやな

秋ふかき 隣は何を する人ぞ

私たちの耳に、これらの言葉の美しい調べが聞こえてきたら、どんなに幸せな気分になることだろう。

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ボードレール 「シテール島への旅」 Baudelaire « Un Voyage à Cythère » 3/3 自分を見つめる力と勇気

第11詩節では、絞首台に吊され、鳥や獣に体を引き裂かれた哀れな姿に向かい、「お前(tu)」という呼びかけがなされる。

Habitant de Cythère, enfant d’un ciel si beau,
Silencieusement tu souffrais ces insultes
En expiation de tes infâmes cultes
Et des péchés qui t’ont interdit le tombeau.

シテール島の住民、この上もなく美しい空の子、
お前は、静かに、数々の屈辱を耐え忍んでいた、
贖罪のためだ、数々の悪名t高き信仰と
様々な罪の。その信仰と罪のため、お前は墓に葬られることを禁じられたのだった。

(朗読は2分40秒から)
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芥川龍之介「羅生門」brutality(野性)の美しさ ボードレール的耽美主義 あらすじと下人の心理を超えて  

芥川龍之介の「羅生門」は、『今昔物語』の「羅城門の上層に登り死人を見たる盗人の語」を物語の骨格として作られていて、火事や地震や飢饉が続き、荒れ果てた平安時代末期の京都を舞台にし、死体の積み重なる羅生門の上で、行き場を失った下人が哀れな老婆から着物を剥ぎ取り立ち去っていく話。

自分が生き残るためにはどんな悪事を犯してもしかたがないと決意する男と、死んだ女の髪を抜き、鬘にして売ろうという醜い老婆の姿からは、暗く陰惨なイメージしか浮かんでこない。

そんなあらすじを追うだけで、人間のエゴイスム、善悪の判断基準の相対性、下人の心理の変化といった主題を考える前に、芥川がなぜそんな醜悪な世界と人間を描いたのかという疑問が自然に浮かんでくる。

その問いについて考える上で参考になるのは、芥川の『今昔物語』についての考察。その中では、『源氏物語』の美との対比が論じられている。

 『今昔物語』の芸術的生命は生まなましさだけには終わっていない。それは紅毛人(こうもうじん)の言葉を借りれば、brutality(野性)の美しさである。あるいは優美とか華奢とかには最も縁の遠い美しさである。(中略)
 『源氏物語』は最も優美に彼等の苦しみを写している。(中略)『今昔物語』は最も野蛮に、— あるいはほとんど殘酷に、彼等の苦しみを写している。僕等は光源氏の一生にも悲しみを生じずにはいられないであらう。(中略) が、『今昔物語』の中の話(中略)には、何かもつと切迫した息苦しさに迫られるばかりである。
(「今昔物語鑑賞」http://yab.o.oo7.jp/kon.html 読みやすくするために多少字句を変更した。以下同。)

『源氏物語』の優美さが「源氏物語絵巻」の中で見事に映像化されているとすると、『今昔物語』的な「brutality(野性)の美しさ」は、「地獄草紙」や「餓鬼草紙」を通して後世の人々に伝えられてきたといってもいいだろう。

様々な悪行によって地獄に落ちた人々や飢餓に苦しむ人々の描かれた絵画は、優美な宮廷の貴族たちを描いた絵巻とは正反対の印象を与える。
しかし、それにもかかわらず、日本の国宝に指定されていることからもわかるように、美的価値が認められてきた。

芥川龍之介が、こうした「野生の美」を大正時代に甦らせる際、念頭に置いたのではないかと考えられる詩集があった。それは、シャルル・ボードレールの『悪の華』。
その詩集の中では、一般的に美しいと考えられるテーマではなく、悪徳や醜悪さが歌われ、新しい時代の美が逆説的な姿で表現された。

ここでは、最初に、目を背けたくなるような荒れ果てた世界に目を向け、次に、下人が悪を決意するまでの心的過程を辿ってみよう。その心的変化をもたらすのは猿のような老婆だが、彼女こそが醜さと美の関係を転換させる鍵でもある。

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芥川龍之介「鼻」 心理学と写生文 

芥川龍之介が大正5(1916)年に発表した「鼻」を読むと、現在であれば、コンプレックスの話だと誰もが思うだろう。

鼻の長いことがコンプレックスの原因になった男が主人公。彼の行動の心理が、綿密に理論立てて分析され、さらに、彼を笑いものにする人々の行動と心理も付け加えられている。

本文はあおぞら文庫で読むことができる。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/42_15228.html

朗読もyoutubeにアップされている。(約23分)

「鼻」について、芥川はあるメモの中で、「僕は鼻で身体的欠陥のためにたえずvanityの悩まされている苦しさを書かうとした。(中略)僕はあの中に書きたくもない僕の弱点を書いている」と告白している。

その一方で、夏目漱石がこの短編小説を賞賛した手紙(大正5(1916)年2月19日)の中で指摘したのは、素材の新しさ、文章の的確さ、そして、「自然そのままの可笑味(おかしみ)」についてだった。

龍之介と漱石によって提示された異なる視点を頭に置きながら、「鼻」について考えていこう。

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