ランボーの詩を楽しむ ー 意味ではなく、音楽を聴く

もうかなり前のことになるが、パリにある「Amis de Rimbaud(ランボー友の会)」から依頼されて講演を行い、フランスの文学愛好家たちに向けて、日本におけるアルチュール・ランボーの受容を紹介したことがある。

その講演の「つかみ」として、日本の大学生たちにランボーの詩の魅力をどう伝えているか、具体的なアプローチを紹介したのだが、その内容は、フランス語で詩を読む喜びを持ち続けている日本の読者にも役立つかもしれないと思い、ここで改めて紹介することにした。


Les étudiants japonais face à Rimbaud

Arthur Rimbaud n’est pas un poète facile d’accès pour les étudiants japonais. La raison en est simple : ses poèmes ne présentent guère de récits continus et ne peignent pas le monde réel de manière réaliste. 

« Ma Bohème » peut, à la rigueur, sembler accessible au premier abord aux étudiants, qui se représentent assez aisément cette figure de jeune garçon flânant à travers les prés sous les étoiles.

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マルスリーヌ・デボルド=ヴァルモール 「サアディのバラ」 Marceline Desbordes-Valmore « Les roses de Saadi »  

19世紀のフランスにおいて、女性が詩人として生きることは決して容易なことではなかった。
そうした時代にあって、批評家サント・ブーヴをはじめ、ボードレールやヴェルレーヌたちがこぞって賞賛した女性詩人がいる。それが、マルスリーヌ・デボルド=ヴァルモール(Marceline Desbordes-Valmore: 1786 – 1859)だ。

日本でも、中原中也が昭和12年(1937年)、彼女の魅力を次のような言葉で紹介している。

ヴァルモオル夫人の詩は、身を切るような鋭い感受性から生まれた叫びや呻(うめ)きである。彼女には、詩の技術というものがほとんどなく、教養も十分ではなかった。しかし、音楽やリズムに対しては優れた感覚を持っており、読む人の心をつかむ表現力も備えていた。

この中也の言葉は、それまでフランスで語られてきた彼女への批評を集大成したようなものだが、要するに「豊かな音楽性と素直な表現で、聴く者の心をダイレクトに打つ」ということだろう。

その真骨頂とも言える実例として、今回は彼女の代表作 « Les roses de Saadi »(サアディのバラ)を取り上げたい。フランス語の詩句が持つえもいわれぬ音楽性を味わいながら、マルスリーヌ・デボルド=ヴァルモールが紡ぎ出した詩の世界を、少しのぞいてみることにしよう。

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ネルヴァルと日本的感性 Nerval et la sensibilité japonaise

ジェラール・ド・ネルヴァルに関する無理解や誤読は、1855年の真冬、パリの場末で首を吊って死んだという事件から21世紀の現在まで続いている。

何度かの精神病院への入院や、狂気に関する記述、さらには彼の最期の姿を描いた版画やセンセーショナルな報道記事が決定打となり、ネルヴァルには「夢と狂気の作家」というレッテルが貼られ続けてきた。

いったんそうしたイメージが定着してしまうと、人々はどうしても彼の残した言葉を、夢、狂気、神秘主義といったキーワードを軸に解釈しようとする。そうした読み方の固定化は、一般の読者だけでなく、文学批評や専門研究の世界でも変わることがない。

今も続くこうした状況の中で、私は別の角度からネルヴァルを読み続けてきた。最近、日本の文化、文学、歴史、美術、精神性などをフランスに紹介するための準備をしていたところ、これまでも愛読してきたある言葉が、より深く心に響いた。それは、彼が死の間際まで書き続けていた『オーレリア』の終盤の一節で、何度読み返しても美しい。

(…) tout dans la nature prenait des aspects nouveaux, et des voix secrètes sortaient de la plante, de l’arbre, des animaux, des plus humbles insectes, pour m’avertir et m’encourager. (…) les objets sans forme et sans vie se prêtaient eux-mêmes aux calculs de mon esprit ; — des combinaisons de cailloux, des figures d’angles, de fentes ou d’ouvertures, des découpures de feuilles, des couleurs, des odeurs et des sons, je voyais ressortir des harmonies jusqu’alors inconnues.   (Gérard de Nerval, Aurélia, II, 6)

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小説家の想像力 浦島太郎と小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)

言われるまでは気づかない。だが、言われてみると、思わず「そうだ」と膝を打つことがある。こうした気づきが小説家の言葉によってもたらされるとき、小説家の想像力の働きとはまさにこういうものなのだと、深く納得させられる。

小泉八雲が浦島太郎伝説について思いを巡らせた「ある夏の日の夢(The Dream of a Summer Day)」の一節を読んだとき、私はまさにそんな思いにとらわれた。八雲は、竜宮城から故郷へ帰っていった太郎を思い、夫の帰りを待ちわびる海中の妻の姿に言及している。

それまで私は、浦島太郎がなぜ楽園である竜宮城を去り、地上へ戻ろうとしたのかという理由について考えたことはあった。しかし、太郎が消え去った後の乙姫について考えたことは、一度もなかった。

取り残された妻について、八雲は次のように語る。なお、英語版で、乙姫は竜王の娘とされている。

私はもう一度、浦島のことを思った。竜王の娘が、彼を迎えるために美しく整えられた宮殿の中で、むなしく待ち続けている姿を見た。そして、あの無情な雲の帰還、何が起こったのかを告げ知らせるその帰還を思い浮かべた。さらに、晴れ着のような盛装に身を包んだ、いかにも素朴で愛情深い海の生きものたちが、彼女を慰めようとしている光景も。しかし、実際の物語には、そうしたものは何ひとつ語られていない。そして、人々の憐れみは、すべて浦島に向けられているように思われた。(「ある夏の日の夢」The Dream of a Summer Day, p.18)

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青木繁 「朝日」 穏やかな静寂の情景

たまたま青木繁の「朝日」を目にした。
絵画を鑑賞する際には、描かれた世界の中に入り込むのが一番なので、まずは絵そのものを見つめてみよう。

ここに描かれているのは、雄大にうねる波と赤く染まりゆく空が、今にも溶け合おうとする姿。

(1)色彩

海は、群青色や紫で描かれた波がゆったりとたゆたい、物質的な重みと底知れぬ静寂をたたえている。その重厚な感覚に対して、波頭の白さと射し始めた光が、海面に確かな生命感を与えている。
一方の空は、金色から淡いピンク、そして薄紫へと色彩が変化し、おぼろげながらも、今まさに昇りつつある太陽の温かさを伝えている。

(2)筆致(タッチ)

海は、短く力強い筆致によって絵具の質感が際立っている。色彩に「物質としての重み」が加わることで、波の振動が直接的に響いてくる。
対照的に空は、薄く層を重ねるように描かれ、大気の軽やかさと広がりのある光が表現されている。

(3)グラデーションによる境界の消失

海の「冷色(青・紫)」と空の「暖色(黄・橙)」、そして重厚さと軽やかさという二つの対比は、水平線付近で鮮やかに溶け合う。太陽の光が海面へと滴り、海の青が空の低い位置に霞として立ち上るその様は、まさに色彩の境界が調和し、溶け合っていくかのようだ。

「朝日」という画題は、昇りゆく太陽が暗い海を照らし始め、闇から光へと移り変わる「瞬間のドラマ」を捉えている。それこそが、この絵に刻まれた情景に他ならない。

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坂口安吾 文学のふるさと — 「救いがないこと自体が救い」という逆説

坂口安吾の作品を読んでいると、残酷な場面の後にも救いが示されず、ハッピーエンドにも至らないため、読者である私たちはしばしば途方に暮れてしまう。読み終えた後にもカタルシスがない。それでもなお、彼の作品をつい読んでしまうのはなぜだろうか。

その問いに対して、坂口安吾自身が答えてくれているかのようなエッセーがある。それが、1941年に発表された文学論「文学のふるさと」だ。

このエッセーの冒頭で、安吾はフランスの作家シャルル・ペローの「赤ずきん」を取り上げる。そこでは、少女が狼に食べられたところで物語が終わり、狩人による救出劇は存在しない。人間が狼にむしゃむしゃと食べられる場面で物語は閉じられ、そこには救いがない。

安吾は、「救いのなさこそが救いである」という逆説的な議論を展開し、そこに「文学のふるさと」を見出す。その展開の中で、『伊勢物語』第六段「芥川」を取り上げている。

ここでは、愛する女が鬼に食べられて終わるという、救いのない「芥川」の物語を辿りながら、坂口安吾の文学観について考えてみたい。

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能ある鷹は爪を隠す — 文化の違いを楽しむ

「能ある鷹は爪を隠す」という諺をフランス語に訳すとどうなるか考えていて、日本とフランスの文化、あるいは日本的精神とフランス的精神の違いに思いを巡らせることがあった。

日本語をフランス語に直訳すれば、« Le faucon talentueux cache ses serres. »

では、このフランス語の単文がフランスの文化の中で、日本語の諺が意味する「本当に力のある人間はそれを見せびらかすことなく謙虚に振る舞う」といったニュアンスを伝えるだろうか?
問題は、「隠す」という言葉がどのように受け取られるかにかかっている。

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高村光太郎  「火星が出てゐる」 自(おの)ずから然(しか)るの思想

高村光太郎の詩といえば、「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出來る」(「道程」)や、「智恵子は東京に空が無いといふ、/ほんとの空が見たいといふ。」(「あどけない話」)といった詩句をまず思い出す。「火星が出てゐる」は、それらに比べるとあまり知られていないかもしれない。

しかし、彫刻を学ぶために米英仏へ留学し、西欧的な芸術観を身につけた一人の人間が、ふとした折に立ち止まり、何かを決断しようとするとき、日本的な思考が強くしみ出してくる。その様子が描かれているという点で、この詩はとても興味深い。

そのキーワードは、「自(おの)ずから然(しか)る」である。この言葉は、現代を生きる私たちにとっても大切な響きを持っており、「生の指針」ともなり得る。

火星が出てゐる。

要するにどうすればいいか、といふ問いは、
折角たどった思索の道を初にかへす。
要するにどうでもいいのか。
否、否、無限大に否。
待つがいい、さうして第一の力を以て、
そんな問に急ぐお前の弱さを滅ぼすがいい。
予約された結果を思ふのは卑しい。
正しい原因に生きる事、
それのみが浄い。
お前の心を更にゆすぶり返す為には、
もう一度頭を高くあげて、
この寝静まった暗い駒込台の真上に光る
あの大きな、まっかな星を見るがいい。

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坂口安吾 「桜の森の満開の下」フランス語訳の試み その3 Ango SAKAGUCHI , « Sous la pleine floraison de la forêt de cerisiers», essai de traduction -3

七人の女房は今迄に見かけたこともない女の美しさに打たれましたが、女は七人の女房の汚さに驚きました。七人の女房の中には昔はかなり綺麗な女もいたのですが今は見る影もありません。女は薄気味悪がって男の背へしりぞいて、
「この山女は何なのよ」
「これは俺の昔の女房なんだよ」
と男は困って「昔の」という文句を考えついて加えたのはとっさの返事にしては良く出来ていましたが、女は容赦がありません。
「まア、これがお前の女房かえ」
「それは、お前、俺はお前のような可愛いい女がいようとは知らなかったのだからね」
「あの女を斬り殺しておくれ」
 女はいちばん顔形のととのった一人を指して叫びました。

Les sept épouses furent frappées par la beauté de la femme, une beauté qu’elles n’avaient jamais vue jusque-là, tandis que la femme fut surprise de la laideur des sept épouses.

Parmi elles, il y en avait qui, autrefois, avaient été assez jolies, mais à présent, elles n’étaient plus que l’ombre d’elles-mêmes. 

Saisie d’un malaise, la femme se recula derrière le dos de l’homme et dit :

« Qu’est-ce que c’est que ces femmes de la montagne ? »

« Ce sont mes anciennes épouses », répondit l’homme, embarrassé. Avoir ajouté ce mot “anciennes” n’était pas mal pour une réponse improvisée, mais la femme ne le ménagea pas.

« Ah bon, ce sont donc tes épouses ? »

« C’est que, vois-tu, je n’avais pas su qu’il puisse exister une femme aussi charmante que toi. »

« Tue-moi celle-là d’un coup de sabre », cria la femme en désignant du doigt celle dont les traits étaient les plus réguliers.

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坂口安吾 「桜の森の満開の下」フランス語訳の試み その2 Ango SAKAGUCHI , « Sous la pleine floraison de la forêt de cerisiers», essai de traduction – 2

山賊は女の亭主を殺す時から、どうも変だと思っていました。いつもと勝手が違うのです。どこということは分らぬけれども、変てこで、けれども彼の心は物にこだわることに慣れませんので、そのときも格別深く心にとめませんでした。

Le brigand, dès le moment où il tua le mari de la femme, eut le sentiment que quelque chose clochait.

Tout se passait différemment de d’habitude.

Il ne savait pas précisément quoi, mais c’était étrange ; pourtant, comme il n’était pas habitué à s’attarder aux choses, il ne le prit pas particulièrement à cœur, même sur le moment.

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