言葉の裏を読む 太宰治とラ・ロシュフコー

太宰治が『風の便り』という小説の中で、次のように書いている。

あいつは厭な奴だと、たいへんに好きなくせに、わざとさう言い変へているような場合が多いので、やり切れません。思惟と言葉との間に、小さな歯車が、三つも四つもあるのです。

https://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/283_15064.html

言葉と気持ちの間にズレ(歯車)があるために、言葉の表面的な意味だけでは相手の本当の気持ちを知ることができない。
自分でも言いたいことがうまく言えないことがあるし、相手が嘘をついていることもある。だから、言葉だけでは信じられない。
本心を知りたいけれど、言葉を通して読み取った気持ちが本心かどうかはわからない。

こんな現代人の気持ちを、太宰治はとても上手に汲み取っているので、『斜陽』が今でも一番売れている小説なのだろう。

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クローデルのお地蔵様

ポール・クローデル(1868−1955)は、フランス大使として1921年から27年まで日本に滞在し、日本の文化を深く理解したフランスの作家。
また、彼は敬虔なカトリック教徒でもあり、西洋的な感性と東洋的な感性の出会いを体現している。

そのクローデルの『百扇帖』Cent phrases pour éventailsと題された詩集の中に、お地蔵さまをうたった詩がある。

La nuit
Approche ta joue de ce bouddha de pierre
et ressens combien la journée a été brûlante

夜
頬を石の仏様に近づけてごらん
感じてごらん 今日の日差しがどんなに強かったか

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オルフェウスとイザナギ 妻を求めて地獄に下る二人の夫

地獄下りの物語は様々な神話として残されている。
その中で、オルフェウスとイザナギは、亡くなった妻を求めて地下世界に下るという点で共通している。
その一方で、違いも大きい。

オルフェウスは地獄の王の許可を得て、愛するエウリュディケを地上に連れ戻そうとする。

Jean-Baptiste Corot, Orphée ramenant Euridce des Enfers

イザナギは闇の中でウジ虫がたかったイザナミの姿を見、恐怖のあまり一目散に逃げ出す。

妻を求めての地獄下りという同一のエピソードに基づきながら、全く違う展開をたどるギリシア神話と日本の神話を通して、どのようなことが見えてくるのだろうか。

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雲雀 万葉集の和歌とトゥルバドゥールの詩を通してみる日仏の美的感性

雲雀が出てくる日本とフランスの詩を比べ、二つの国の感受や思想の違いを垣間見ていこう。

一つは、『万葉集』に収録されている、大伴家持(おおとも の やかもち、718年頃~785年)の句、「うらうらに」。

もう一つは、12世紀南フランスのトゥルバドゥール、ベルナール・ド・ヴァンタドゥール(Bernard de Ventadour、1145-1195)の「陽の光を浴びて雲雀が」。
トゥルバドゥールとは、ラング・ドックと呼ばれる南フランスの言語を使い、新しい恋愛の概念を生み出した、作曲家・詩人・音楽家。ヴァンタドゥールは、その代表的な詩人の一人である。

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中原中也「寒い夜の自我像」 人間の弱さと詩情 

人間は誰でも弱さを抱えて生きている。その弱さを自覚をしたとき、肩肘を張って強さを装うのか、押しつぶされて自己嫌悪に陥るのか、見ないようにして逃げようとするのか。対応はいろいろある。

中原中也は「寒い夜の自我像」の中で、どうしようもない弱さを前にして、どうにかこうにか折り合いをつけようともがく。その自分の姿を言葉で描き出しながら、そこに詩情を生み出している。

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