ボードレール 「寡婦たち」 Baudelaire « Les Veuves » 1/3 韻文詩「小さな老婆たち」の散文化?

シャルル・ボードレールは、1857年に韻文詩集『悪の華(Les Fleurs du mal)』を出版する少し前から、散文詩を書き始めていた。

その詩集が風俗を乱すという理由で裁判にかけられ有罪になると、1861年に出版されることなる第2版に向けて、韻文詩をさらに付け加える準備をしながら、それと並行して散文詩も積極的に発表した。
詩人の死後に『パリの憂鬱( Le Spleen de Paris)』という題名で出版された散文詩集はその果実である。

こうしたことは、現在の視点から見ると何の驚きもない事実を列挙しただけだが、19世紀の半ばにおいては、自明のこととはいえなかった。
では、何か問題なのか?

続きを読む →

ボードレール 「小さな老婆たち」 Baudelaire « Les Petites Vieilles » 5/5

愛する者の後を付いて行ったら、最後は声を掛けることになるだろう。実際、「私」は、第4部に至り、vousという代名詞を使い、老婆たちに呼びかけ始める。

ここでは、第4部を構成する6つの詩節を読む前に、英語やフランス語と日本語の違いについて考えておきたい。

英語であれば相手を指す代名詞(二人称)はyouのみ。フランス語であれば、tuとvousのニュアンスはあるが、2つの代名詞しかない。
それに対して、日本語では、相手との関係によって数多く存在する。
あなた、あんた、君、お前、貴様、等々。その他、先生、社長、おばちゃん、お姉さん、等々、仕事の役職や親族関係を示す言葉が、代名詞のように使われるし、そちらの方が自然だろう。

また、それに合わせて、自分の呼び方(一人称)も、私、ぼく、おれ、わし、等、色々とある。子どもに対して、お父さんとかお母さんと言った言葉を、一人称の代名詞のように使うこともある。

このように日本語では、自分と相手との人間関係を直感的に測り、自分や相手を呼ぶ言葉を決め、それに合わせて言葉のレベル全体も調整する。

続きを読む →

ボードレール 「小さな老婆たち」 Baudelaire « Les Petites Vieilles » 4/5

第3部では、具体的に一人の女性に焦点が絞られ、公園にたたずむ彼女の姿と彼女を取り囲む世界が絵画のように描き出される。
その絵は、生命感に溢れ、日常でありながら英雄性を持ち、ボードレール的美を表現したものになっている。

(朗読は2分55秒から)

続きを読む →

ボードレール 「小さな老婆たち」 Baudelaire « Les Petites Vieilles » 3/5

ボードレールはヴィクトル・ユゴーへの手紙の中で、「小さな老婆たち」について、ユゴーのいくつかの詩の模倣をしたと書いていた。

その際、彼が頭に置いていた詩の一つは、『東方詩集(Les Orientales)』に納めされた「亡霊たち(Fantômes)」だろう。

その詩は、「ああ! 私は見たのだった、数多くの若い娘たちが死んでいくのを!(Hélàs ! que j’en ai vu mourir de jeunes filles !)」という詩句から始まり、様々な少女たちが、一人一人、数え上げられ、人生の儚さが歌われる。

ユゴーの詩の雰囲気は、友人の画家ルイ・ブランジェの絵画によっても知ることができる。

ボードレールは、「小さな老婆たち」の第2部で、まず最初に三人の女性に呼びかける。

(朗読は、2分10秒から。)

続きを読む →

スティング 「ロシア人」 Sting «Russians» The Russians love their children too.

スティングが、ウクライナ支援のために、1985年に発表した« Russians »をインスタグラムにアップしたというニュースが流れている。
https://www.musiclifeclub.com/news/20220308_05.html

« Russians »は、1980年代の米ソの冷戦時、核戦争で世界が破壊される前に、両国ともに「人道的な感情」を取り戻して欲しいという内容のもの。
英語の歌詞と日本語の訳がついたビデオで聞いて見ると、スティングの思いが伝わってくる。

続きを読む →

ボードレール 「小さな老婆たち」 Baudelaire « Les Petites Vieilles » 2/5

第1詩節で、「私」が見たいと望む「独特な存在(singuliers êtres)」には、矛盾する二つの特質が付与された。
それらは、「老いさらばえている(décrépits)」けれど、「魅力的(charmants)」でもある。

第2詩節から第9詩節にかけては、その存在についての詳細な描写がなされていくのだが、決して「老婆(vieilles)」という言葉が使われない。
もしその単語が使われると、それを受ける代名詞は女性形のellesになる。
しかし、ボードレールは最初に「怪物(monstres)」と呼び、男性単語を使うために、代名詞は男性形のilsが使われ続ける。
そのことで、老婆には女性性が失われているかのような印象が生み出される。

(ilsと書かれていても「彼女たち」としてしまう方がわかりやすいのだが、ボードレールがあえてilsとしていることを考慮し、以下に付す日本語では、代名詞を使う場合には「それら」とする。既訳では、「彼ら」としているものもあるが、それでは老婆の意味が消えてしまう。)

第2ー3詩節のポイントとなるのは、「魂(âmes)」と「謎かけの絵(rébus)」。

rébus

Ces monstres disloqués furent jadis des femmes,
Éponine ou Laïs ! Monstres brisés, bossus
Ou tordus, aimons-les ! ce sont encor des âmes.
Sous des jupons troués et sous de froids tissus

Ils rampent, flagellés par les bises iniques,
Frémissant au fracas roulant des omnibus,
Et serrant sur leur flanc, ainsi que des reliques,
Un petit sac brodé de fleurs ou de rébus ;

続きを読む →

ボードレール 「小さな老婆たち」 Baudelaire « Les Petites Vieilles » 1/5

「小さな老婆たち(Les Petites Vieilles)」は、「七人の老人(Les Sept vieillards)」と共に、ボードレールが1869年9月にビクトル・ユゴーに送った詩。
その際、二つの詩には「パリの亡霊たち(Fantômes parisiens)」という総題が与えられていた。

その手紙の中で、ボードレールはとりわけ「小さな老婆たち」に関して、次のように書いている。

二番目の詩(「小さな老婆たち」)は、「あなたを模倣することを目指して」書いたものです。(私のうぬぼれを笑って下さい。自分でも笑っています。)あなたの詩集から何編かを読み返しました。素晴らしい慈悲の心が、感動的な親密さと混ざり合っているものです。私は時々、絵画展で、惨めな画学生が巨匠の作品を模写するのを見てきました。巧みに描かれたものも、稚拙なものもありました。でも、彼らの模写の中に、彼らの知らないうちに、時に、彼ら自身の性質に由来する何かが含まれていることがありました。優れたもののことも、卑俗なこともありました。

ここでボードレールは、「模倣」にも、模倣した人間の「性質(nature)」が反映すると考えていることがわかる。
としたら、ユゴーの詩の模倣の試みである「小さな老婆たち」にも、ボードレールの気質の反映が見られるはずであり、それが1860年前後のボードレールという詩人の特質になっているかもしれない。

「模倣」について考えるために、絵画の例を見ておこう。

続きを読む →

ボードレール 「七人の老人」 Baudelaire « Les Sept Vieillards » 2/2

「七人の老人」の後半、第8詩節からは、老人の数が増え始める。そして、不思議な雰囲気が漂うようになる。
(朗読は1分45秒から)

Son pareil le suivait : // barbe, oeil, dos, bâton, loques,
Nul trait ne distinguait, // du même enfer venu,
Ce jumeau centenaire, // et ces spectres baroques
Marchaient du même pas // vers un but inconnu.

続きを読む →

ポン・ジュノ監督 「パラサイト」 映画と倫理観

映画の本質はストーリーでもなければ、物語の背景にある倫理観でもない。映画の中で殺人が起こっても現実の殺人ではないし、どんなに荒唐無稽な出来事でもフィクションとして受け入れることができる。
映画としての本質がそこにないことはわかっている。

ストーリーや倫理観を取り上げるのであれば、映画でも小説でも、理解する内容が同じことは多くある。映画を見るときには、映画的な表現を体感することが最大の楽しみとなる。

それはわかっているのだけれど、しかし、どうしても倫理的な価値観でつまずいてしまうことがある。
例えば、西部劇は、どんなに名作と言われても、見る気がしなくなってしまった。
アメリカ西部の未開拓地に進出したヒーローが、無法で野蛮なインディアンと戦い、勝利を収めるのが基本的なパターン。しかし、西部が未開拓、インディアンが野蛮というのは白人側からの視点。現代の視点からすると、ヒーローは侵入者でしかなく、インディアンは自分たちの土地を守るためにカーボーイたちを襲わざるを得ない状況に置かれている。

それは単なる状況設定であり、西部劇の傑作は、現代的な価値観を超えて永遠の価値を持ち続けていると言われるかもしれない。しかし、開拓者精神を賛美する視点につまずくために、西部劇が楽しめないようになってしまった。

カンヌ映画祭のパルム・ドール、アメリカのアカデミー賞の4部門で受賞したポン・ジュノ監督の「パラサイト」は、批評家からも高い評価を受け、私の個人的な価値判断など意味を持たないことはわかっている。
ただ、この映画を全面的に楽しめない理由が、倫理観にかかわっていることがわかっているので、その点について考えてみたい。

続きを読む →

ボードレール 「七人の老人」 Baudelaire « Les Sept Vieillards » 1/2

シャルル・ボードレールは1859年5月の手紙の中で、「パリの亡霊たち(Fantômes parisiens)」と題され、その後「七人の老人(Les Sept Vieillards)」という題名を与えられる詩について、新しく試みている連作の最初のものであり、これまで詩に定められてきた限界を超えるのに成功したと記している。

それは、1857年に出版した『悪の華(Les Fleurs du mal)』が裁判で有罪を宣告され、6編の詩が削除を命じされた後、第2版の出版に向け、新しい詩を模索している時のことだった。

4行詩が13節連ねられ、全部で52行から成る「七人の老人」は、前半の7詩節と後半の6詩節に分けて理解することができる。
前半は、パリの情景と一人の老人の出現。
後半は、その老人が7人にも8人にも見える幻覚症状。

詩法としては、一行の詩句や一つの詩節に意味を収めることとされてきた伝統的な詩法に対して、新しい詩を模索するボードレールは、あえて意味と詩句の対応を破壊した。すると、そのズレた部分が詩句のリズムを変え、特定の言葉にスポットライトを当てることになる。

内容的には、「美は常に奇妙なもの」とか「美は常に人を驚かす」とするボードレールの美学が、「七人の老人」の中で具現化されていると考えることができる。

続きを読む →