プルースト 見出された時 Proust  Le Temps retrouvé  過去と現在の同時性 

『失われた時を求めて』の最終巻『見出された時』の後半、語り手である「私」は、パリに戻り、ゲルマント大公夫人のパーティーに出席する。
そして、ゲルマント家の中庭を歩いている時、ふぞろいな敷石につまずく。その瞬間、かつてヴェニスで寺院の洗礼堂のタイルにつまづいた記憶が蘇り、さらには、マドレーヌによって引き起こされた幸福感が呼び覚まされる。

その思い出の連鎖に基づきながら、『失われた時を求めて』全体を貫く「無意志的記憶」についての考察がなされ、「思い出す現在」と「思い出される過去」の「類推(analogie)」が生み出す「軌跡(miracle)」が見出されることになる。

(…) ; mais entre le souvenir qui nous revient brusquement et notre état actuel, de même qu’entre deux souvenirs d’années, de lieux, d’heures différentes, la distance est telle que cela suffirait, en dehors même d’une originalité spécifique, à les rendre incomparables les uns aux autres. Oui, si le souvenir, grâce à l’oubli, n’a pu contracter aucun lien, jeter aucun chaînon entre lui et la minute présente, s’il est resté à sa place, à sa date, s’il a gardé ses distances, son isolement dans le creux d’une vallée ou à la pointe d’un sommet ;

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思い出を生きる 過去と現在の同時性 キルケゴールのイエス・キリスト像に倣って

過去の出来事を思い出す時、私たちは過去と現在を二重に生きている。
思い出すという行為は現在に位置し、思い出される内容を現在の意識が再体験する。その意味で、過去の思い出は現在の体験ともいえる。

ここでは、19世紀の宗教的哲学者セーレン・キルケゴール(Søren Kierkegaard)によるイエス・キリスト観を参考にして、過去と現在の同時性について考えてみよう。

キリスト教が他の宗教と異なる最も大きな特色は、人間イエスが神でもあるという二重性に基づく教義である。
仏教の仏陀にしても、儒教の孔子にしても、道教の老子や荘子にしても、イスラム教のマホメッドにしても、宗教の創始者が神と見なされることはない。
それに対して、キリスト教では、「父なる神、子なるイエス、聖霊」の三位一体が信仰の中心にある。

人間イエスの生涯は、『新約聖書』の中で辿ることができる。
イエスの生年ははっきりしないが、ヘロデ大王(紀元前4年に没)の晩年にガリラヤのナザレで生まれ、紀元28年頃、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けた。
その後、ガリラヤ湖畔を中心に宣教活動を開始し、最後はエルサレムでユダヤ教の神殿に批判を加え、ローマのユダヤ総督ポンティウス・ピラトによって十字架刑に処せられた。
処刑に関しては、ローマの歴史家タキトゥスも、『年代記』の中で、短い記述を残している。

実在の人間が神でもあるという教義は、キリスト教の信者でない者にとって不可解に思われるのだが、キルケゴールは、過去に実際に存在したイエスが永遠で絶対的な存在である神であると信じることこそ、キリスト教の本質であると考えた。

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サマータイム制度 効果は?

フランスでは夏時間から冬時間に切り替わり、2022年10月30日の午前2時が午前1時となる。
節電のために1976年に導入開始されたサマータイム制度だが、エネルギーの消費構造が変化した現在、本当に効果があるのか議論が続いている。

Le changement d’heure se fera en 2022 dans la nuit du samedi 29 au dimanche 30 octobre, à 3 heures du matin, l’heure de la journée à laquelle il y a le moins d’activité économique et sociale dans le pays. Permet-il toujours de faire des économies d’énergie ? 

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ボードレール 「香水瓶」 Baudelaire « Le Flacon » 香りと思い出 Parfum et souvenir

『悪の花(Fleurs du mal )』が1857年に出版され、風紀を乱すという罪状で裁判にかけられている時期、ボードレールは、それまでは明確な形で愛を告白してこなかったアポロニー・サバティエ夫人、通称「女性大統領(La présidente)」に手紙を書き、9編の詩が彼女に向けられたものであることを告白した。

「香水瓶(Le Flacon)」はその中の一編であり、共感覚を歌った「夕べの諧調」(参照:ボードレール 夕べの諧調 )に続き、香りと思い出が連動する様子が歌われている。

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プルースト 『失われた時を求めて』 Proust À la recherche du temps perdu マドレーヌと記憶のメカニスム 2/2

マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』の語り手である「私」は、ある冬の日、母の準備してくれた紅茶にマドレーヌを入れて味わった時の「甘美な喜び(un plaisir délicieux)」を思い出す。
その感覚が、飲み物によってもたらされたものではなく、自分自身の中にあるものだった。

Il est clair que la vérité que je cherche n’est pas en lui (le breuvage), mais en moi.

明らかに、私が探している真実は、その飲み物の中にあるのではなく、私の中にある。

「私」はその真実に達しようとするのだが、試みる度に抵抗があり、「自分の底にある(au fond de moi)」ものが浮かび上がってこない。

と、突然、思い出が蘇る。

 Et tout d’un coup le souvenir m’est apparu. Ce goût, c’était celui du petit morceau de madeleine que le dimanche matin à Combray (parce que ce jour-là je ne sortais pas avant l’heure de la messe), quand j’allais lui dire bonjour dans sa chambre, ma tante Léonie m’offrait après l’avoir trempé dans son infusion de thé ou de tilleul.

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プルースト 『失われた時を求めて』 Proust À la recherche du temps perdu マドレーヌと記憶のメカニスム 1/2

マルセル・プルースト(Marcel Proust)の『失われた時を求めて(À la recherche du temps perdu)』は20世紀を代表する小説の一つであり、忘れていた思い出を一気に甦らせるマドレーヌの挿話は現在でもよく知られている。

フランス語を学び、フランス文学に興味があれば、『失われた時を求めて』を一度は読んでみたいと思うのだが、しかし小説全体は7巻からなり、7000ページにも及ぶ。その上、プルーストの文章は、一文が長いことで知られているために、読むのを諦めてしまうこともある。

日本人にとって、フランス語の長い文はハードルが高い。
その理由は、日本語では、核となる名詞や動詞の前に付随する形容詞や副詞が位置するのに対して、フランス語では後に続くという、構文上の違いにある。
そのために、文が長く続けば続くほど、出てきた要素がどこに関係しているのか分からなくなってしまう。

プルーストの文章は、フランス人にとっても長いといわれる。名詞を説明する関係代名詞に先行された文や、挿入句や文がいくつも繋げられ、なかなか終わらない。
しかし、決して不明瞭な文だと言われることはない。

日本語の文では、時として主語と動詞の関係がずれ、文意が不明瞭なことがある。それでも、日本語母語者にはなんとなくわかってしまう。外国人にはなんと難しいことだろうか!と思ったりもする。
反対に、フランス語では、文がどんなに長くなっても、そうしたズレは生じない。構文は明確であり、主語と動詞の関係がずれるということはない。

混乱するとしたら、頭の中で日本語に訳し、語順を変えてしまうからだ。
関係代名詞や挿入文が出てくるときは注意を要する。英語の授業で、関係代名詞に続く文を「訳し上げる」ことを教わることがある。それこそが英語の構文を混乱させる大敵なのだ。
文章を前から読んで、そのまま理解していく。当たり前のことだが、それがどんな言語でも、読む時の基本となる。

なぜプルーストの文が時として非常に長いのかは、人間の意識や記憶に関する本質的な問題を含んでいる。その点に関して、マドレーヌが最初に出てくる場面を読みながら、考えて行くことにしよう。

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中原中也 月の光 癒しがたい悲しみを生きる

中原中也の「月の光 その1」と「月の光 その2」は、最愛の息子、文也の死をテーマにした詩で、痛切な悲しみが激しい言葉で綴られていてもおかしくない。
しかし、それとは反対に、感情が押さえられ、全体がおぼろげな雰囲気に包まれている。

その雰囲気は、ポール・ヴェルレーヌの『艶なる宴(Fêtes galantes)』に由来する。
題名は「月の光(Clair de lune)」からの借用であり、「マンドリン(Mandoline)」に出てくる二人の人名チルシスとアマントも使われている。

そこでの風景はまさに、「あなたの魂は、選び抜かれた風景(Votre âme est un paysage choisi)」とヴェルレーヌによって表現されたような、「死んだ児(子)」を悼む詩人の心象風景。
その中で、現実の死と直面した中也が、詩人として死を受け入れようとする。そうした心の在り方を描き出している。

月の光 その1

月の光が照っていた
月の光が照っていた

  お庭の隅の草叢(くさむら)に
  隠れているのは死んだ児(こ)だ

月の光が照っていた
月の光が照っていた

  おや、チルシスとアマントが
  芝生の上に出て来てる

ギタアを持っては来ているが
おっぽり出してあるばかり

  月の光が照っていた
  月の光が照っていた

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アポリネール 「ネクタイと腕時計」 Apollinaire «La Cravate et la Montre» 詩と絵画の融合『カリグラム(Calligrammes)』

ギヨーム・アポリネール(Guillaume Apollinaire)は、1918年、死の直前に出版した『カリグラム(Calligrammes)』の中で、文字がデッサンのように配置された詩によって、詩と絵画とが融合した新しい芸術を目に見える形で示した。

カリグラム(Calligrammes)という言葉は、「習字」を意味する「カリグラフィー(calligraphie)」と「表意文字」を意味する「イデオグラム(idéogramme)」を組み合わせたアポリネールの造語だが、さらに遡ると、ギリシア語の「カロ(kallos)=美」と「グラマ(gramma)=文字」に由来し、「美しく書く、美しい文字」を暗示する。

アポリネールは、友人のパブロ・ピカソに「僕も画家だ。」と言ったと伝えられるが、『カリグラム』の中表紙にはピカソによるアポリネールの肖像画が掲げられている。
彼らは、20世紀初頭において、新しい美の創造を目指した芸術家の一団の中で、中心的な役割を果たしたのだった。

ここでは、カリグラムによって描かれた「ネクタイと腕時計(La Cravate et la Montre)」を見て=読んでいこう。

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村上春樹「壁と卵」 情報戦から距離を置くことの難しさ

村上春樹は時に時事問題にコミットした発言をすることがあるが、2009年に「エルサレム賞」を受賞した際の「壁と卵」と題された小文は、とりわけよく知られている。
その中で村上は、イスラエルとパレスチナの問題にあえて触れ、集団的な暴力(戦争、軍事力による攻撃)に反対する立場を明確にしたのだった。

もしここに硬い大きな壁があり、そこにぶつかって割れる卵があったとしたら、私は常に卵の側に立ちます。

戦いが目の前にない時には、誰しもが「卵」である個人の価値を説き、「壁」という巨大な暴力システムを非難し、戦争反対を口にする。
しかし、ある状況になると、いつの間にか自分が「壁」の側に立ち、「壁」と同一の思想を抱いているのに、そのことに気づかないことがある。
ここでは、その理由について考えてみたい。

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