宮沢賢治 銀河鉄道の夜 すきとおった世界

宮沢賢治(1896-1933)は生前2冊の本しか出版していない。一冊は詩集『春と修羅』、もう一冊は童話集『注文の多い料理店』。どちらも大正13年(1924年)のことだった。
その同じ年に、結局未完のままで終わった「銀河鉄道の夜」 も書き始められた。

その時期は賢治の創作活動が最も活発な時であると同時に、彼の世界観が「心象スケッチ」や物語の形で美しく表現されていた。

その世界観は、『注文の多い料理店』の「序」では、子どもにも理解できるやさしい言葉で告げられる。

わたしたちは、氷砂糖をほしいくらいもたないでも、きれいにすきとおった風をたべ、桃いろのうつくしい朝の日光をのむことができます。
(中略)
わたくしは、これらのちいさなものがたりの幾いくきれかが、おしまい、あなたのすきとおったほんとうのたべものになることを、どんなにねがうかわかりません。

ここでは、「すきとおった」という言葉が最初と最後に出てくることに注目しておきたい。その言葉は、賢治の世界がその本来の姿を現すことを示すマジック・ワードなのだ。

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宮沢賢治 「めくらぶどうと虹」 根源的生命と美の世界

宮沢賢治の「めくらぶどうと虹」は原稿用紙7枚ほどの短い童話だが、東洋的あるいは日本的な世界観、生命感が誰にでも理解できる穏やかな言葉で語られている。

童話は、東北の言葉で「めくらぶどう」と言われる野ブドウと虹の間のやり取りの中で展開する。

地上のめくらぶどうは自分を価値のない存在と考え、天空に架かる美しい虹に憧れを抱き、「今日こそ、ただの一言でも、虹と言葉を交わしたい。」と望み、虹に「どうか私の敬いを受け取って下さい。」と訴える。

そんなぶどうに対して、虹の方では、「敬いを受けることはあなたも同じです。」とか、「あなたこそそんなにお立派ではありませんか。」と応え、ぶどうと自分との間に違いはないと応える。
その虹の言葉は、決してぶどうを慰めるためのおべっかではなく、一つの世界観、宗教観、生命観に基づいている。

ここではまず、「めくらぶどうと虹」の朗読(約9分)を聞き、童話全体を知ることから始めよう。

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日本語の音楽を聴く

音のない言葉を考えることはできない。
声に出して話したり読んだりする時だけではなく、頭の中で何かを考える時にも音があり、それらの音の繋がるリズムを感じている。

日本語を母語とする者にとっては、5/7を基本とするリズムがごく自然に心地よく感じられる。

ひさかたの 光のどけき 春の日に 静心(しづごころ)なく 花の散るらむ(紀友則)

私の上に 降る雪は/真綿(まわた)のやうで ありました(中原中也)

これらの言葉の魅力は、意味だけではなく、口調の良さによってももたらされている。
言葉たちが音楽を奏で、私たちはその音楽に耳を傾けて、うっとりするといってもいいだろう。

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小林秀雄「モオツアルト」と中原中也の四編の詩

小林秀雄の評論の中でも最もよく知られている「モオツアルト」は、昭和21年12月30日に発行された『創元』の創刊号に掲載された。
この雑誌の編集者の一人は小林自身であり、その号には彼が選んだ中原中也の未発表の詩4編も収録されている。

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中原中也 骨 “自分が自分を見る” 可笑しさ 

中原中也の詩の中ではとても珍しいのだが、「骨」は、悲しみも苦しみも感じさせず、ユーモラスで、朗らかな感じが全体を包んでいる。
死んだ自分が自分の骨を見ているという内容とは相容れない屈託のなさがある。
しばしば中也の道化的な言葉の裏には憂鬱や悲しみがあるが、この詩には暗い影がさしていない。

もし、自己の存在感のなさから来る不安とか、中也の表情が見えず彼の衰弱を露呈しているとか、中也の孤独感、苦々しい自嘲といったものと読み取るとしたら、それは、読者の持つ中也像や内心の感情を、この詩に投影しているのかもしれない。

自分の骨を見る自分という構図から、骨を取り除くと、臨死体験的なことではなく、単に自分を見る自分になる。自分を反省するとか、自己分析するというのであれば、誰もが経験があるだろう。
とりわけ、若い時には、自分とは誰か、どのような存在なのか、考えることがある。

自己分析をすれば、暗くなる。
それは当たり前のことだ。自分の中をのぞき込むのは、ロダンの「考える人」。
メランコリーに取り憑かれた、憂鬱な人間の典型的なポーズに他ならない。

別の言い方をすると、主体としての「私」が、客体としての「私」を見ることになる。
それが「自分を知る」ためには不可欠な行為と考えられることも多い。

中也は、「骨」を通して、そのような「自分が自分を見る」行為を滑稽に描き、最後にそれとは違う認識の形を提示する。だからこそ、この詩には暗い陰がなく、むしろ、少しばかり皮肉なユーモアが感じられる。

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中原中也 汚れつちまつた悲しみに…… “傷ついた抒情精神を歌う”

「汚れつちまつた悲しみに……」は、中原中也の詩の歌心をはっきりと教えてくれる。

4行から成る4つの詩節が一見規則正しく並び、一行の拍数も7/5調を基本としてほぼ一定。
その整然とした枠組みの中に、微妙なニュアンスが加えられ、単調さを感じさせない。
例えば、「汚れつちまつた悲しみ」がわずか16行の詩の中で8回も反復されるが、格助詞の「に」と「は」が巧みに使い分けられ、独特の味わいを生み出している。

内容面では、前半部では外の風景が描かれ、後半部では感情や心の中の思いが表現される。そして最後に、「日は暮れる……」と外の風景に戻る。

詩全体を通して、一度も悲しみの主体に関する言及がなく、何が悲しいのか、なぜ悲しいのか、誰が悲しいのかさえ明らかにされない。
それにもかかわらずなのか、それだからこそなのか、読者は悲しみを自分の悲しみであるかのように思いなし、歌を口ずさむように、「汚れつちまつた悲しみに」と繰り返し口ずさむことになる。

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中原中也 月夜の浜辺 “貴方が情けを感じるものを”

「月夜の浜辺」は、中原中也の詩心をかなり明確に示している。

詩が語る内容はほとんどないに等しい。
月の出ている夜、浜辺を散歩している時に一つのボタンを拾い、捨てられないでいる。
散文にすれば1行で終わる。

その内容を17行の詩句で展開するとしたら、詩の目指すものは何だろう?

月夜の浜辺

月夜の晩に、ボタンが一つ
波打際に、落ちていた。

それを拾って、役立てようと
僕は思ったわけでもないが
なぜだかそれを捨てるに忍びず
僕はそれを、袂(たもと)に入れた。

月夜の晩に、ボタンが一つ
波打際に、落ちていた。

それを拾って、役立てようと
僕は思ったわけでもないが
   月に向ってそれは抛(ほう)れず
   浪に向ってそれは抛れず
僕はそれを、袂に入れた。

月夜の晩に、拾ったボタンは
指先に沁(し)み、心に沁みた。

月夜の晩に、拾ったボタンは
どうしてそれが、捨てられようか?

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中原中也 サーカス まどろむ悲しみ

Bernard Buffet, The Trapeze Artists

「ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん」。
このオノマトペ(擬音語・擬態語)が「サーカス」の印象を決定付けると言っても過言ではない。
中原中也は、この音の塊を、「仰向いて眼をつぶり、口を突き出して、独特に唱った」という。

詩の中心をなす単語一つを取り上げるとしたら、「ノスタルジア」。
かつて愛していたけれど今はない何か。その何かに対する切ない想い。郷愁。

どこか淋しげだけれど、しかし、「ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん」と揺れるブランコが、揺り籠のように心を揺らし、まどろませてくれる。

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中原中也 朝の歌 吉田秀和の思い出の中の「歌う中也」 

中原中也の詩が音楽性に富んでいることは、彼の詩句を声に出してみればすぐに感じる。
では、彼はどんな音楽に親しんでいたのだろうか?

そんな問いに応えてくれるのが、日本を代表する音楽評論家、吉田秀和(1913-2012)が中也の思い出を語った文章だ。彼の思い出によると、中也は、自作の詩、フランスの詩、そして和歌も、声に出して歌っていた。

中也自身も、詩の中でこんな風に言っている。

その脣(くちびる)は胠(ひら)ききって
その心は何か悲しい。
頭が暗い土塊(つちくれ)になって、
ただもうラアラア唱ってゆくのだ。(中原中也「都会の夏の夜」)

吉田の思い出を辿りながら、中也がどんな風にラアラア歌っていたのか、少しだけのぞいてみよう。

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中原中也 時こそ今は・・・ 人生と作品

中原中也は、自分の人生で起こったことを題材として取り上げ、赤裸々に詩の中で語るかのような印象を与える詩人である。

「時こそ今は・・・」の中の「泰子」は長谷川泰子だろうし、「冬の長門峡」は現実の長門峡の情景を前提とし、「帰郷」で歌われる「私の故郷」は山口県の湯沢温泉を指す。
中也の詩は、彼の人生の具体的な出来事を契機として生み出されたと考えていいし、詩の理解にはそれらの出来事の知識が大いに役立つ。

しかし、詩の言葉を全て現実の出来事に関連付け、詩人の人生から作品を解釈するとしたら、詩としての価値を大きく減らすことになってしまう。
たとえ個人的な出来事を歌った詩であっても、それが読者の心を打つためには、普遍性を持つ詩句である必要がある。
こう言ってよければ、詩人の仕事は、何を語るかと同時に、どのような言葉を選択し、それらの言葉をどのように配置し、一つの詩的世界を構築するかにかかっている。
出来上がった作品は、現実から独立し、詩としての価値を持つ。
だからこそ、読者は、中也の詩句を読み、たとえ彼の人生を知らなくても、心を動かされるのだ。

こうした人生と作品の関係について、「時こそ今は・・・」を読みながら、少しだけ考えてみよう。

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