表現の自由と宗教の問題 Liberté d’expression et religions

イスラム教の創始者ムハンマドの風刺画を授業の中で見せた教師が殺害されるという事件が起きた時、フランスでは「表現の自由(liberté d’expression)」と「世俗主義(laïcité)」が強く主張され、マクロン大統領もこの二点は譲ることができないという立場を明確に表明した。

それに対して、イスラムの国々では強い反発が起き、フランス製品の不買運動や反フランスのデモが続いている。
また、カナダのトルドー首相は、表現の自由は重要だがある程度の限度があると、ニュアンスを持たせた発言をした。

日本的な感性では、トルドー首相の発言が最も賛同しやすい。それに対して、テロ事件が起こるきっかけを作るような風刺画を擁護し、表現の自由を強く主張するマクロン大統領の主張は理解しにくいし、賛同を得られにくい。

なぜフランスは表現の自由をこれほど強く擁護し、なぜ日本的な感性は「ある程度の制限」はしかたがないと感じるのだろう。

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ドナルド・トランプ的思考 言葉のズレと1枚のルノワール

ドナルド・トランプの思考がどのように働くのか、フランスの政治ジャーナリストが、大統領選挙直後の彼の言葉の分析を通して紹介している。

彼の勝利宣言のような言葉は、以下の通り。
”We were getting ready to win this election. Frankly, we did win this election.”

ready to winでは勝利の準備ができているだけで、勝利していない。しかし、その後、すぐに続けて、we dit winと勝利にしてしまう。
こうして、彼の頭の中では、まだ実際に起こっていない事柄が事実に変わってしまう。
そして、その飛躍を可能にするのは、ただ一つの言葉、Frankly。「率直に言えば」という言葉を挟み、思いが現実へ変わってしまう。少なくとも、彼の頭の中では。

彼がいくらファクト・チェックを受けてもファクトだと認めないのは、こうした彼の言葉の使い方にあるという分析は、とても興味深い。

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Over the rainbow 虹の彼方に

Over the rainbowは、1939年に公開されたミュージカル映画「オズの魔法使い(The Wizard of Oz)」の中でジュディー・ガーランドが歌い、その後、多くのジャズ演奏家によっても取り上げられた。
詞はエドガー・イップ・ハーバーグ、曲はハロルド・アーレン。1939年のアカデミー歌曲賞を受賞している。

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アズナブールの« Qui »を歌うステフィ・セルマ(Stefi Celma)

ステフィ・セルマ(Stefi Celma) は、テレビ番組 Dix pour centで注目を浴びた女優兼歌手。

2020年11月4日に放送されたテレビ番組 6 à la maisonで、彼女の歌う « Qui »(シャルル・アズナブールの曲)が紹介された。歌詞の後半だけしか歌っていないが、とてもいい雰囲気を出している。

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江戸時代前半の絵画 将軍と大名、京都の貴族と高級商人の趣味

江戸時代の絵画というとすぐに浮世絵が浮かぶ。しかし、浮世絵は庶民を中心に人気を博したものであり、実際の主流は狩野派によって占められていた。

狩野派は、戦国時代の末期、織田信長や豊臣秀吉に重用された狩野永徳を始め、徳川幕府の初期に御用絵師となった狩野探幽たちにより、社会的な地位を固めていった。

京都では、狩野家と同時に、土佐派や住吉派が大和絵の伝統を守っていたが、それと同時に、俵屋宗達や尾形光琳といった個性的な画家たちも活躍した。

江戸時代の絵画を味わうためには、こうした大きな流れを知っておくことが必要になる。

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How long has this been going on ? オードリー・ヘップバーンの歌うジャズ

「パリの恋人(Funny Face)」(1957年)の中で、本屋の店員を演じるオードリー・ヘップバーンがフレッド・アステアからキスをされた後、夢見がちに歌う曲« How long has this been going on »。
「こんなことがどのくらい続いてきたの?」では歌の題名にならないので、英語のままの題名で知られている。

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徒然草とベルクソンの時間論 あはれの美と持続 beauté japonaise et durée bergsonienne  

『徒然草』の中で、兼好法師は、無常観に基づいた日本的美について何度か筆を走らせている。

世は定めなきこそいみじけれ。
命あるものを見るに、人ばかり久しきはなし。かげろふの夕べを待ち、夏の蝉の春秋はるあきを知らぬもあるぞかし。(第7段)

折節の移り変るこそ、ものごとにあはれなれ。(第19段)

花は盛りに、月は隈くまなきをのみ、見るものかは。雨に対ひて月を恋ひ、垂れこめて春の行衛ゆくへ知らぬも、なほ、あはれに情け深し。(第137段)

移りゆくもの、儚く消え去るもの、春の桜、暮れゆく秋などに、日本的感性は美を見出す。
そうした感性は、永遠に続く理想の美を追究するヨーロッパ的な美意識とは対極を成している。
なぜ日本的美意識は、これほどまでに儚く淡いものに強く反応するのだろうか。別の視点から言えば、消え去ることに本当に価値を置いているのだろうか。

アンリ・ベルクソンが提示した「持続(durée)」という時間意識は、その問いに答えるためのヒントを与えてくれる。

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本質的なものは目に見えない(サン=テグジュペリ)? 存在は本質に先立つ(サルトル)? 二つの世界観と絵画の表現

1910年に描かれた2枚の絵がある。

これほど違う世界観を表現している絵画が同じ年に描かれたことに、驚かないだろうか。
一方には、モンマルトルの街角が再現されている。この場所に行けば、今でもそれとわかるだろう。
もう一方は、何が描かれているのかまったく分からない。ギタリストという題名を見て人間やギターの姿を探しても、立方体の塊しか見えない。モデルになった人と出会っても、認識することは不可能である。

この対照的な2枚の絵画を参照しながら、サルトルとサン=テグジュペリによって示された二つの世界観について考えてみよう。
L’essentiel est invisible pour les yeux. (本質的なものは目に見えない。)
L’existence précède l’essence. (存在は本質に先立つ。)

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Un temple perdu dans les bois du Mont Maya

 Au regard perspicace de Paul Claudel, au Japon, toute la nature est un temple déjà prêt et disposé pour le culte et le surnaturel n’est nullement autre chose que la nature.
Et toujours selon cet écrivain français, tout le but de la religion est de placer l’esprit dans une attitude d’humilité et de silence au regard des choses permanentes. (« Un regard sur l’âme japonaise »)

 Voici quelques photos d’un tout petit temple caché dans la nature du Mont Maya, qui témoignent de cette observation claudélienne.

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