フロベール 「ボヴァリー夫人」 シャルルの死 3/3 Flaubert, Madame Bovary, la mort de Charles 3 / 3

ロドルフと会った翌日、シャルルは庭のブドウ棚に行き、ベンチに座る。
その時の様子を、フロベールは淡々と描写する。花が香り、虫が飛び回り、空は青い。穏やかな一日。
そんな中、シャルルはある想いに捉えられる。

Le lendemain, Charles alla s’asseoir sur le banc, dans la tonnelle. Des jours passaient par le treillis ; les feuilles de vigne dessinaient leurs ombres sur le sable, le jasmin embaumait, le ciel était bleu, des cantharides bourdonnaient autour des lis en fleur, et Charles suffoquait comme un adolescent sous les vagues effluves amoureuses qui gonflaient son cœur chagrin.

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フロベール 「ボヴァリー夫人」 シャルルの死 2/3 Flaubert, Madame Bovary, la mort de Charles 2 / 3

シャルルの心はどうしてもエンマから離れることができずにいる。医者としての仕事も手に付かず、生活費もままならなくなる。最後には、診療に向かう時の馬車を曳く馬まで売るところまできてしまう。

Un jour qu’il était allé au marché d’Argueil pour y vendre son cheval, — dernière ressource, — il rencontra Rodolphe.

ある日、彼はアルギュイユの市場に行き、馬を売ることにした。ーー それが最後の収入源だった。ーー 彼はロドルフに出会った。

ロドルフは、エンマの不倫相手。シャルルは、彼の手紙をエンマの手紙入れの中で見つけ、妻の裏切りを確信したのだった。
そのロドルフに会ったのだ。
フロベールはここで、« Il rencontra Rodolphe.»とだけ書く。これほど単純な文もなく、その単純さが出会いのインパクトの大きさを印象付ける効果を発揮する

シャルルはどんな態度を取るのだろう。

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ジェラール・ド・ネルヴァル 「10月の夜」ユーモアと皮肉 Gérard de Nerval « Les Nuits d’Octobre » humour et ironie 1/5

Nadar, Gérard de Nerval

ジェラール・ド・ネルヴァルは、しばしば、狂気と幻想の作家と言われてきた。
しかし、彼の声に耳を傾けて実際に作品を読んでみると、その場その場で話題になっていることを、面白可笑しく、時に皮肉を込めて、友だちと話すのが大好きな人間の姿が見えてくる。
ちょっと内気で、あまり大きな声ではない。やっと4,5人の友だちに聞こえるくらい。でも、調子づくと、脱線しながら、面白い話が次々に出てくる。

1852年に『イリュストラシオン』という絵入り雑誌に5回に渡って掲載された「10月の夜」は、そうしたネルヴァルの語り口をはっきりと感じさせてくれる。

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フロベール 「ボヴァリー夫人」 シャルルの死 1/3 Flaubert, Madame Bovary, la mort de Charles 1 / 3

『ボヴァリー夫人』の中で、シャルルは可哀想な役割を担わされている。
彼はどこまでも妻のエンマを愛し、彼女をいたわる夫として行動する。
それに対して、エンマはロマン主義的な空想に似つかわしくない夫シャルルを退屈だと見なし、レオンやロドルフとの不倫に走る。挙げ句の果てに、毒を飲み、死を選ぶ始末。

そんなエンマの視線を通して小説を読む読者も、シャルルを退屈で、ダサイ夫と思い込む。多くの批評家も、シャルルは平凡な町医者で、歩道のように平板な会話しかできないと言う。

しかし、『ボヴァリー夫人』の冒頭はシャルルの子供時代のエピソードから始まる。
https://bohemegalante.com/2019/06/29/flaubert-madame-bovary-incipit-1/
結末でも、シャルルの死の直前に行動に焦点が当てられている。
エンマの死で小説は終わらない。

そこでふと思う。
エンマの目を通したシャルルは平凡でさえない夫だが、本当にそんな男なのだろうか、と。

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ヴェルレーヌ 忘れられたアリエッタ その9 Verlaine « Ariettes oubliées IX » 風景と人の心

19世紀の後半、フランスでは浮世絵が大流行し、日本趣味(ジャポニスム)が広がった。ヴェルレーヌがそうした流行とどのようにかかわり、日本の精神から何かを学んだのかどうかはわからない。
しかし、ヴェルレーヌの詩は、日本語を母語とし、日本的感性を持っている人間であれば、すぐに理解できる側面を持っている。逆に言うと、フランス的な感性を持った人間には、理屈で説明しないといけないのかもしれない。

巷に雨の降るごとく わが心にも涙降る
Il pleure dans mon cœur / Comme il pleut sur la ville
(「忘れられたアリエッタ その3」)
https://bohemegalante.com/2019/07/26/verlaine-ariettes-oubliees-iii/

この詩句は、和歌に親しんでいる私たちには、そのまま心に入ってくる。

奥山に 紅葉ふみわけ 鳴く鹿の 声きく時ぞ 秋は悲しき
                          (詠人知らず)

この句を読むと、私たちは、紅葉や鹿が秋をつげ、どこかもの悲しい感じ、つまり、もののあわれを自然に感じる。

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マラルメ 「エロディアード 舞台」 Mallarmé « Hérodiade Scène » 言語と自己の美的探求 7/7

エロディアードの32行に及ぶセリフの後、彼女と乳母のやりとりが2度繰り返され、「エロディアード 舞台」は幕を閉じる。

ただし、二人の対話と言っても、乳母の発話は極端に短く、最初は「あなた様は、死んでおしまいになるのですか」、2度目は、「今?」のみ。

実質的には、エロディアードがほぼ全ての言葉を独占し、マラルメの考える美のあり方が示されていく。

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マラルメ 「エロディアード 舞台」 Mallarmé « Hérodiade Scène » 言語と自己の美的探求 6/7

Jean-Jacques Henner, Hérodiade

「エロディアード 舞台」の第86行目から117行目までの32行の詩句は、エロディアードが自己のあり方を4つの視点から規定する言葉から成り立っている。
まず、彼女が花開く庭から出発し、黄金、宝石、金属に言及されることで、個としてのエロディアードの前提となる、普遍的な美が示される。
次いで、乳母から見える彼女の姿。
3番目に、彼女自身が望む彼女の姿。
最後に、「私を見る私」という構図の種明かしがなされる。

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マラルメ 「エロディアード 舞台」 Mallarmé « Hérodiade Scène » 言語と自己の美的探求 5/7

Jean Raoux, Femme à sa toilette

エロディアードが乳母に「私、きれい(Suis-je belle ?)」と問いかける言葉で、「エロディアード」という詩のテーマが明確にされた。
マラルメが詩の効果として追求するものは、「美」なのだ。

では、姫の問いかけに、乳母は何と応えるのだろう。

              N.

                              Un astre, en vérité :
Mais cette tresse tombe…

         N. (乳母)

                     星のように、本当に。
でも、この御髪が落ちかかっていらっしゃいます。

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マラルメ 「エロディアード 舞台」 Mallarmé « Hérodiade Scène » 言語と自己の美的探求 4/7

Berthe Morisot, Devant le miroir

乳母とエロディアードの最初の対話によって、見ることが自己の分裂を生みだし、「自己が見る自己」の映像が詩のテーマとして設定された。

エロディアードは、ライオンのたてがみのような髪を整えるために、乳母に手を貸すように命じる。
そこで、乳母は、髪に振りかける香水について、一つの提案をする。

         N.

Sinon la myrrhe gaie en ses bouteilles closes,
De l’essence ravie aux vieillesses de roses,
Voulez-vous, mon enfant, essayer la vertu
Funèbre?

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マラルメ 「エロディアード 舞台」 Mallarmé « Hérodiade Scène » 言語と自己の美的探求 3/7

Filippo Lippi, Fête de Herode

8行目の詩句の最後の4音節は、次の行に移る。
芝居のセリフではよくあるが、マラルメはその技法によって、« Par quel attrait »というキーになる詩句を、目に見える形で強調する。

Par quel attrait
Menée et quel matin oublié des prophètes
Verse, sur les lointains mourants, ses tristes fêtes,
Le sais-je ? tu m’as vue, ô nourrice d’hiver,
Sous la lourde prison de pierres et de fer
Où de mes vieux lions traînent les siècles fauves
Entrer, et je marchais, fatale, les mains sauves,
Dans le parfum désert de ces anciens rois :
Mais encore as-tu vu quels furent mes effrois ?

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