ジェラール・ド・ネルヴァル 「ボエム・ギャラント」をめぐって その2

「ボエム・ギャラント(La Bohème galante)」の第1章に入る前、ネルヴァルは、昔の友人であり、当時は『ラルティスト(L’Artiste)』誌の編集長としてネルヴァルに原稿を依頼する立場にあったアルセーヌ・ウッセー(ArsèneHoussaye)に向けて、次のような一文を書き、その後に、ウッセーの詩の一部が引用されている。

ちなみに、ウッセーは1815年生まれで、1808年生まれのネルヴァルよりも7歳年下になる。そして、1835年にはこれから語られる芸術家たちの集団で共に過ごし、1844年には一緒にオランダ旅行をした仲だった。他方で、ウッセーは1843年からは『ラルティスト』誌の編集長(directeur)を務め、1849年からはコメディ・フランセーズの総支配人(Administrateur général)の地位にも就いており、ジェラールとはかなり社会的な格差がついていたといえる。

Mon ami, vous me demandez si je pourrais retrouver quelques-uns de mes anciens vers, et vous vous inquiétez même d’apprendre comment j’ai été poëte, longtemps avant de devenir un humble prosateur. — Ne le savez-vous donc pas ? Vous, qui avez écrit ces vers :

(poëteは現在の綴りではpoète。1878年の綴字改革以来、eの上はトレマ〈ë〉ではなくアクサン・グラーヴ〈è〉になった。)

我が友よ、君はぼくに、ぼくの昔の詩をいくつか探し出せないかと言う。そればかりか、ぼくが一介の散文家になるずっと前に、どんな詩人だったのか知りたい、とさえ案じてくれる。――君がそれを知らないというのか。こんな詩句を書いたのは、ほかでもない君なのに。

この一節を読むだけで、ネルヴァルのユーモアと皮肉のセンスを感じることができる。

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ジェラール・ド・ネルヴァル 「ボエム・ギャラント」をめぐって その1

このブログは、ジェラール・ド・ネルヴァル(Gérard de Nerval)の『ボエム・ギャラント(La Bohême galante)』から名称を借用している。その理由は、私が長年にわたりネルヴァルの詩や散文を愛読する中で、もっともネルヴァル的だと思える作品の一つであり、とりわけ愛着のある題名だからだ。

ネルヴァルは現在でも、夢と狂気の作家などというレッテルを貼られ、作品はそうした視点を通して読まれることが多い。しかし、実際に彼の紡いだ言葉を彼の生きた時代に引き戻して読んでいくと、それらの言葉は身近な友人たちとの対話から成り立ち、お互いに知っている事柄について、ユーモアや皮肉を込めて、面白おかしくやり取りしていたのだということがわかってきた。彼が頭に置いていた読者は、非人称で不特定な人々ではなく、少数の知り合いに限られていたといっていいかもしれない。

逆に言えば、ネルヴァルの言葉を丹念に読み解いていくことで、私たちも、1808年に生まれ1855年に亡くなったフランスの作家と直に言葉のやり取りをしているような感じがしてくる。友だちになったとは言えないけれど、知り合いの一人には入れてもらえるような気がするのだ。

『ボエム・ギャラント』で言えば、19世紀の半ばのフランスで、1848年の2月革命の後、ナポレオン3世が権力をにぎり、帝制を確立する時期にあたる1852年、ネルヴァルは友人で『ラルティスト(L’Artiste)』という豪華な雑誌の編集長だったアルセーヌ・ウッセイから、一緒に過ごした青春時代の思い出を書くように誘われる。

その注文に応じてネルヴァルが書く内容は、当然、友だち仲間ではよく知られていたことであり、内輪話といってもいい。仲間同士でああだった、こうだったと言いながら、楽しい時を過ごす。そうしたシンパシーに富んだ言葉が綴られる。

当然のことながら、私たち現代の読者は知らないことが多いので、それなりに調べることが出てくるのだが、そうしているうちに、いつの間にかネルヴァルの仲間うちの一人になった気分になってくる。

これから何回になるかわからないのだが、『ボエム・ギャラント』について少しずつこのブログで書いていくことは、私の独り言のようなものになるかもしれない。その意味では、ネルヴァルがしたことをここで私がたどり直すと言ってみたい気もする。

ただし、言葉によって美を表現することがネルヴァルの最終目標だったのだと私は思うのだが、残念ながら、私は作家ではないので、言葉の美を作り出すことはできない。ただ、『ボエム・ギャラント』をめぐって、ふらふらと読書の散策をすることだけになるだろう。

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Gérard de Nerval « Les Cydalises »  ネルヴァル 「レ・シダリーズ」 声に出すとフランス語の音楽性が感じられる詩

ジェラール・ド・ネルヴァルの« Les Cydalises »は、フランス人でなくても、フランス語の詩の音楽性をすぐに感じ取ることのできる美しい詩である。意味はその後から自然に立ち現れてくる。ヴェルレーヌの« De la musique avant toute chose »(何よりも先に、音楽を)という言葉を、まさに実感させてくれる詩だと言っていい。

La Cydalise(シダリーズ)とは、18世紀の牧歌詩や雅宴詩(フェット・ギャラント)の伝統に由来し、優雅で愛らしい若い女性を指す名前で、複数形« Les Cydalises »を題名とするネルヴァルの詩における「シダリーズ」は、彼が青春時代をともに過ごした文学者や画家たちの仲間に加わっていた女性たちのことを指している。

ではまず« Les Cydalises »の第一詩節を、声に出して読んでみよう。

全てが6音節の詩句だが、少し注意したいのは、a/mou/reu/sesで、最後の -ses は語末の無音のeを含むため、一音節として数えず、3音節になること。また、2行目と3行目の最初の Ellesは、次に子音で始まる sont が続くため、、El/lesと2音節になること。

Où sont nos amoureuses?
Elles sont au tombeau.
Elles sont plus heureuses,
Dans un séjour plus beau !

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宮沢賢治 「よだかの星」 よだかはなぜ星になれたのか ― 孤独・不殺生戒・無我から読む

宮沢賢治の「よだかの星」は、醜い姿のために皆から嫌われていた主人公のよだかが、ある自覚をきっかけに天へ向かうことを決意し、最後には天の川の星となり、青く美しい火となって燃え続けるという、ある意味ではハッピーエンドで終わる童話である。

しかし現代では、生きることを何よりも大切に考え、死をできるかぎり避けようとする価値観が強い。そのため、主人公の死によって幕を閉じるこの物語は、そうした現代の感覚とは相容れない面があり、「よだかの星」をそのまま受け入れることが難しくなっている。

さらに、この童話は「自己犠牲」の物語として語られることが多い。しかし実際に読んでみると、その犠牲によって他の生きものたちに「ほんとうのさいわい」がもたらされる場面は描かれていない。
「銀河鉄道の夜」のサソリの寓話や「グスコーブドリの伝記」のように、自らの死によって他者の幸福が実現される物語と比べると、他者の存在はむしろ希薄である。「灼(や)けて死んでもかまいません」というよだかの言葉も、虫たちのためというよりは、自らの苦しい境遇から抜け出したいという願いのように聞こえてしまう。

そのため、最後の「そしてよだかの星は燃えつづけました。いつまでもいつまでも燃えつづけました。/今でもまだ燃えています」という一節を読み終えたとき、どこか割り切れない思いが残り、すっきりしないと感じる人は少なくない。

しかし、SNSが広く普及し、多くの人といつでもつながっているように見えながら、本心を語り合うことが難しく、少しのことで嫌われるのではないかとおびえ、心の底では孤独を抱えている現代人にとって、「よだかの星」は、一つの心のあり方をそっと教えてくれる童話でもある。

そして、そのことに気づくためには、この作品を読む視点をほんの少し変えてみるだけでいい。

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宮沢賢治「やまなし」—クラムボンの謎からオノマトペが手渡す「実感」へ

宮沢賢治の「やまなし」は、小学校の国語の教科書に採用されている作品である。しかし、教える側からは、「難しい」「よくわからない」教材だという声が少なくない。

物語は、幻燈機から映し出された二枚の青い映像によって構成されている。最初の場面は五月、次の場面は十二月である。いずれも、川の底に暮らす二匹のカニの兄弟と、その父親との会話を中心に描かれる。

五月の場面では、前半で「クラムボン」をめぐるやり取りが交わされ、後半では、一匹の魚が何かを捕らえ、その魚が今度は鳥に捕らえられるという出来事が話題になる。

十二月の場面では、成長したカニの兄弟が泡の大きさを競い合い、続いて、川へ落ちてきた果物の「やまなし」を追いかける親子のやり取りが描かれる。

物語の筋だけを追えば、「やまなし」はきわめて簡潔な作品である。それにもかかわらず、なぜ教師たちにとって手強い教材となるのだろうか。
ここでは、その理由を、従来とは少し異なる視点から考えてみたい。

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宮沢賢治 原体剣舞連 — 詩のリズム  3/3 いのちの火花を灯す踊り

(宮沢賢治 原体剣舞連 — 詩のリズム  2/3 Ho ! Ho! Ho! 悪路王の出現 から続く)


オノマトペ — 4

   dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah

このオノマトペは、詩の冒頭で響いた八拍のリズムとまったく同じものである。そのため、悪路王の伝説の世界から、再び目の前で展開する剣舞へと読者の意識を引き戻す役割を果たすことになると考えてもいいだろう。


第七連

ここから再び行下げがなくなり、剣舞の踊り手たちへの呼びかけが再開される。

さらにただしく // 刃(やいば)を合(あ)はせ         (さらにも強く刃(やいば)を合(あ)はせ)
霹靂(へきれき)の(5) // 青火(あおび)をくだし     (この行を縦線で削る)
四方(しはう)の夜(よる)の // 鬼神(きじん)をまねき
樹液(じゆえき)もふるふ // この夜(よ)さ(4)/ひとよ
赤ひたたれを // 地にひるがへし
雹雲(ひやううん)と(5) // 風とをまつれ

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宮沢賢治 原体剣舞連 — 詩のリズム  2/3 Ho ! Ho! Ho! 悪路王の出現

(宮沢賢治 原体剣舞連 — 詩のリズム 1/3 舞手たちへの祈願 から続く)

オノマトペ — 3

ここで突然、それまでとは性格の異なるオノマトペが出現する。

   Ho! Ho! Ho!

「Ho! Ho! Ho!」という三拍のオノマトペは、詩人が踊り手たちに呼びかけた願いと、その後に続く場面との間に置かれ、詩の流れが大きく転換することを告げる役割を果たしていると考えられる。

このオノマトペについては、賢治自身が驚きを表す声として用いていたことをうかがわせる証言が残されている。

賢治が原体村で剣舞を見たのは、大正6(1917)年8月28日から9月8日にかけて、友人たちとともに江刺地方で地質調査を行った際のことであった。その折、賢治は五輪峠で蛇紋岩脈にハンマーを打ち込み、飛び散る岩片を拾いながら、「ホー、ホー! 二十万年もの間隔の目を見ずに居たのでみな驚いている」と叫んでいたという。この思い出を、同行した友人の一人が後年語っている。

こうした証言を踏まえると、「Ho! Ho! Ho!」もまた、賢治が驚きを表すために用いた声と読むことができる。そして、この驚きの声の直後に、伝説の英雄・悪路王が突如として姿を現すことに注目するならば、このオノマトペは、前半の祈願の世界から後半の伝説の世界へと読者を導く転換点として機能していると考えることができる。

すなわち、「Ho! Ho! Ho!」は、単なる感嘆の声ではない。それは、踊り手たちの舞が「師父たち」の姿を超え、東北の歴史と伝説が重なり合う新たな世界の扉を開く合図となっているのである。

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宮沢賢治 原体剣舞連 — 詩のリズム 1/3 舞手たちへの祈願

宮沢賢治の詩――彼自身の言葉に従えば「心象スケッチ」――の魅力の一つは、言葉のリズムにある。実際に声に出して読んでみると、そのことがよくわかる。

よく知られた「けふのうちに/とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ」(「永訣の朝」)という一節では、和歌の「五・七・五・七・七」という五つの音のまとまり(句)の構造を踏まえながらも、あえてその定型を崩し、「六/四/六/五/五」という独自のリズムを刻んでいる。

最初に「けふのうちに(6)」というやや長めの言葉を置き、続いて「とほくへ(4)/いつてしまふ(6)」と運ぶ。そして最後に、「わたくしの(5)/いもうとよ(5)」と着地させることで、心地よい韻律を生み出している。

こうした詩句のリズムにとりわけ敏感だった詩人・中原中也は、『春と修羅』(大正13年〈1924年〉)が出版された当初からの数少ない愛読者だった。そして、中也がとりわけ好んだ作品が、岩手県の郷土芸能である「剣舞(けんばい)」を題材とした「原体剣舞連(はらたいけんばいれん)」である。

この作品には、中也が賢治の詩を高く評価した理由でもある「民謡の精神」が濃密に息づいている。ここで注目したいのは、その「民謡の精神」の根底にある音楽的な側面である。詩句のリズムそのものが中也の耳を心地よく打ち、彼を惚れ惚れとさせたのではないだろうか。

その魅力を体感するために、まずは朗読を聞いてみよう。意味にはあまりこだわらないようにして、言葉の響きとリズムそのものに耳を傾けることで、この詩ならではの躍動感を味わうことができる。

基本となるリズムは、七拍と七拍を一組とし、その上にさまざまなヴァリエーションが加えられていく。

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宮沢賢治「心象スケッチ」の意味――Mental Sketch Modifiedと中原中也

宮沢賢治と中原中也は、現在でも人気の高い詩人であり、愛読者も多い。二人の詩人のつながりについても、これまでさまざまな考察が行われてきた。しかし、興味深いことに、二人とも生前はほとんど無名といっていい存在だった。宮沢賢治が出版できたのは、大正13年(1924年)の詩集『花と修羅 心象スケッチ』と童話集『注文の多い料理店』の二冊だけであり、中原中也が生前に出版した詩集も、昭和9年(1934年)の『山羊の歌』一冊だけだった。

たぶん宮沢は中原のことを知らなかったのではないかと思われる。他方、中原は『花と修羅』が出版された際にたまたま手にし、それ以来、愛読していたことが知られている。そして、中原が宮沢について書いた文章を読むと、宮沢賢治のすべての著作の鍵となる「心象スケッチ(Mental Sketch Modified)」がどのようなものなのかを、とても分かりやすく知ることができる。

その理由の一つは、二人の詩人が同じような感受性を共有していたことにある。しかし、それだけではない。大正時代に日本で大きなブームとなったアインシュタインの相対性理論に由来する新しいものの見方に基づき、当時の人々は、物理的な世界観と精神世界とを融合させた世界のあり方を探ろうとしていた。そのような時代的背景も見逃すことはできない。

そうしたことを頭に置きながら、中原中也が宮沢賢治について書いた短い文章を手がかりに、二人の詩作の根底に流れる基調低音の調べを探っていこう。

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小林秀雄 「無常という事」 2/2 上手に思い出すこと

「無常という事」は、あるものを実感する姿勢(態度:1)と、それを理論的に説明しようとする姿勢(態度:2)という二つの対比を軸として論が展開されていく。その上で、後半では、この対比を前提に、「態度:2」を経た後で、いかにして「態度:1」を取り戻すかが考察される。

まず、鎌倉時代をめぐる「歴史」の考察に現れる、この二つの態度の対比を確認してみよう。

歴史の新しい見方とか新しい解釈とかいう思想からはっきりと逃れるのが、以前には大変難かしく思えたものだ。そういう思想は、一見魅力ある様々な手管(てくだ)めいたものを備えて、僕を襲ったから。一方歴史というものは、見れば見るほど動かし難い形と映って来るばかりであった。新しい解釈なぞでびくともするものではない、そんなものにしてやられる様な脆弱(ぜいじゃく)なものではない、そういう事をいよいよ合点して、歴史はいよいよ美しく感じられた。

ここでいう「歴史の新しい見方とか新しい解釈とかいう思想」は、明らかに「態度:2」に属する。

これに対して「態度:1」に属するのは、歴史を生きた現実として感じ取るあり方である。小林は、「歴史」は新しい解釈によって左右されるようなものではないと言う。

この「歴史」が「態度:1」に属することは、それまでの議論を踏まえると理解しやすい。一言で言えば、過去の出来事が現在の自分の経験の中に生きた現実として立ち現れてくるとき、それは小林のいう「歴史」となるのである。

小林はかつて、「出来事の意味や背景を理論的に説明し、解釈しようとする営み」(態度:2)に強く惹かれ、そこから離れることは難しいと感じていた。しかし、比叡山で『一言芳談抄』の断片を突然思い出し、その世界を生きた現実として感じ取った経験を通して、解釈ではなく実感として受け止められる「歴史」に、美を見いだすようになったのである。

したがって、「無常という事」で用いられる「歴史」という言葉は、単なる過去の事実や歴史学の対象ではなく、過去が現在の自己の経験の中によみがえり、生きた現実として感得されるもの、という意味で理解する必要がある。

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